2002.05.05更新

日本書紀』古代⇒史の虚実。[26頁]。

古代⇒「神秘的な童女」「迫真の暗殺場面」「広げて二百数十メートル

神秘的な童女

 晩秋の奈良盆地。東北にせまる笠置(かさぎ)の山々は紅や黄に色づき、山里の道筋に沿って連なる丈高い芒(すすき)の穂が、潺湲(せんかん)たる水の音に耳を傾けている。その響きも、樹間を吹きわたる風も思いなしか冷たく、すでに冬の訪れを告げているようだった。

 崇神天皇の十年――。

 いまの奈良県天理市にある和坂(わにのさか)に、一隊の軍勢がさしかかった。天皇の周辺諸国統一の意を体して北陸討伐に向う、四道将軍の一人大彦命(おおびこのみこと)とその兵士たちである。三輪山の麓(ふもと)にある宮から、ここまでの道のりは十キロ足らず。兵士たちはひと氣もない小暗い坂道を、盾や桂甲(けいこう)のふれあう音も物々しく喘(あえ)ぎのぼっていたが、そのとき先頭の者たちが、場所がら不似合いな少女の後ろ姿を見かけて、思わず歩をゆるめた。

 小袖(こそで)にわらじ姿のその少女は、背後の氣配などにはまるで頓着(とんちゃく)ないといったようすで、無心にうたを歌っていながら歩いている。苛焦(いら)立った雑兵の一人が、兩刃の剣を地について、そこを退けと脅かすように叫んだとき、待て、と大彦命が制した。

「御間城入彦(みまきいりびこ)はや……」

 少女が、そう歌っているのを聞きとがめたのである。これは崇~天皇の名であった。

「御間城入彦はや 己(おの)が命(を)を 殺(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊(ひめなそび)すも」

 天皇さま、ご自分の命をねらう痴者(しれもの)がいるともご存知なくて、よくも御婦人方にうつつをぬかしていらっしゃる。

 大彦命は怪しんで、少女に問いかけた。

「汝が言(いひつること)は何辭(なにこと)ぞ」

 少女はふりむいた。異様に白い顔であった。目鼻や口のつりあいが、どこかぼんやりとして、とりとめがない。その頬(ほお)が急にふくらみ、唇(くちびる)があどけない様に尖(とが)った。

「物言(ものい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」

 よけいなお世話、ただ歌っているだけよ、と言い捨てるや少女はなおも歌いつづけながら、ふっと傍道に入りこんで、林のなかに姿を消してしまった。

迫真の暗殺場面

 『日本書紀』の崇神紀にある武埴安彦(たけはにやすひこ)謀反の導入部を、小説風に書くと以上のようになる。崇神天皇は畿内(きない)を中心に大和国家の基礎を固めた存在で、当然ながら多くの政敵がいた。安彦は孝元天皇の皇子で、書紀によると妻の吾田媛(あたひめ)とクーデターを図るが、大彦命の通報した少女の予言にもとづいて対策を立てていた天皇側に、あっさり蹴(け)散らされてしまうのである。

 そうした血なまぐさい権力争いのいきさつはともかく、ここではむしろ少女のうたった童謡(わざうた)というものがいかにも神秘的で、私たちの想像をかきたてる。もと神為歌(わざうた)と称し、神が無心な童児の口をかりて吉凶をうたわせるものとされていた。“天声人語”、すなわち天に口なし人をして言わしむる、という思想である。

 むろん、書記のこうした書き方は、中国の史書をまねたものにちがいないが、忽然(こつぜん)として現れては消える童女という趣向は、古代人のセンスによくアピールするものがあったにちがいない。それに、うたというものは、元来神の託宣や政事(まつりごと)の諷(ふう)刺を述べたもので、花鳥風月を詠むようになったのは万葉以降だという、二條良基の説もあるほどなのだ。

 大化の改新(六四五)の発端となった 蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺についても、その一年まえに童謡が出現したとある。しかもエロチックな内容である。

「遥(はろ)々に言(こと)そ聞ゆる 島の藪(やぶ)原」(島の藪の中で、密会中の男女の睦(むつ)みごとが洩(も)れ聞えてくる)

「彼方(をちかた)の 浅野の雉(きぎし) 響(ともよ)さず 我は寝しかど 人そ響す」(自分たちは雉のようにひっそりと寝たのに、人に見つけられてさわがれた)

「小(を)林に 我を引入(ひきれ)て 奸(せ)し人の 面(おもて)も知らず 家も知らずも」(歌垣の集りの帰り、見知らぬ男と林の中で寝た)

 これが書記の作者にかかると、ガラリと意味が変ってくる。第一のうたは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、島の屋敷で入鹿討伐の密談をしていること、第二は入鹿にこっそりと(響さず)殺された者の仇(あだ)を、中大兄がハッスルして(響して)討つだろうというもの。最後のうたも入鹿暗殺の予言だというものである。むろん、こじつけだが、手のこんだナゾ解きのようでおもしろい。

 ちなみに、入鹿暗殺のくだりは書記の中でも有数の名場面だ。まず藤原鎌足が宮殿の周囲をかため、二人の刺客に「努力努力(ゆめゆめ)、急須(あからさま)に斬るべし」と命じるが、刺客は緊張のあまり腹ごしらえの飯ものどに通らない、という状況が活写される。

 一味の倉山田(くらのやまだ)の麻呂(まろ)は、三韓からの上奏文を読み上げている。そのあいだに刺客が乱入するという手筈なのだが、上奏文が終りにさしかかってもいっこう合図がないので、「流(い)づる汗身に浹(あまね)くして、声乱れ手動(わなな)く」しまつ。入鹿に怪しまれて「天皇(すめらみこと)に近つける恐(かしこ)みに、不覚(おろか)にして汗流(い)づる」などと必死に弁解する。

 中大兄は刺客を励まして、「咄嗟(やあ)」と呼ぶ。一瞬、気をとり直した刺客は踊りこんで「剣(たち)を以(もつ)て入鹿が頭肩を傷(やぶ)り割(そこな)ふ。入鹿驚きて起(た)つ。子麻呂(刺客)、手を運(めぐら)し剣を揮(ふ)きて、その一つの脚を傷りつ」

 入鹿は天皇の足もとまでころげて行き、助けを求めるが、皇極天皇は女帝であるから、なすところを知らぬうちに、入鹿はついに仕とめられてしまう。「是(こ)の日に、雨下(ふ)りて潦水庭(いさらみづおほば)に溢(いは)めり。席障子(むしろしとみ)を以て、鞍作(くらつくり)(入鹿)が屍(かばね)に覆ふ」

 

広げて二百数十メートル

 簡潔なドキュメンタリー調で、事実に即したであろう記述が迫力を生んでいるが、書紀のすべてがこの調子とはかぎらない。全三十巻のうち、最初の二巻を占める神代紀はその性質上すべてが伝説であり、神武から崇峻あたりまでの全体の三分の二を占める部分には説話と記録がまじっており、最後の数巻が忠実な史料に近づいている.だから書紀の全体は、あえて今日の感覚でいえば虚実をたくみにおりまぜたフィクションといったほうが的を得ているのだが、なんといっても最古の史書である。国のなりたちを知る重要文献だから、虚実を見定めて読むことが必要となる。

日本書紀』が舎人(とねり)親王らの手によって撰(せん)されたのは、養老四年(七二〇)である。親王は天武天皇の皇子で、時の皇族筆頭に位した。この編纂(さん)事業がいかに重要視されたかが窺える.前後四十年を要する大事業だったとは、書紀みずから記録するところ。一説には『古事記』のあと八年間で成ったとする見方もあるが、これは短かすぎるのではあるまいか。

 書紀の内容を広めて手段として、宮中で講筵(書物を講義する催し)が行われ、皇室関係者や学者が出席した。やがてこの書物は、神道学者によって″神典″扱いされるようになった。撰者の目的は達せられたのである。

 この書物を実証的、科学的に研究する道を開いたのは、大正時代の津田左右吉博士からである。彼は、古代の記録が文献としてのこされるようになったのを六世紀以降とし、それ以前の記述は信憑(しんぴょう)性に乏しく、神代史は皇室の由来を説明する政治的意図により構成されていることなどを指摘し、今日の書紀ないし古代史研究の基礎をすえた。

 戦前から戦中へかけて、この書物が再び神典として扱われ、いっさいの批判を許されなくなった事情については、あらためてふれるまでもない。実証的研究が可能となったのは、ようやく戦後になってからだ。

 書紀の写本は、天理図書館、東洋文庫、宮内庁、水野神社、熱田神宮その他に全巻ないし残欠が保存されている。いずれも国宝で、最古の写本は平安初期のものである。東洋文庫にある推古紀を例にとると、タテ二八センチ、全長一〇メートル九三センチの巻子本(かんすぼん)だ。五メートル弱の巻もあるので、三十巻の全長は二百数十メートルだろうか。長さも長いが、影響力の点でも抜群の書物といえよう。 

関連HPサイト私本『日本書紀