2000.12.4入力  

48 『奥の細道』風雅のこゝろ。[260頁]

近世⇒徒歩旅行の記録」「漂白の人生」「五年も費やして完成

  徒歩旅行の記録

 人間は一日どれだけ歩けるものだろうか。今世紀のはじめ、エドワード・ウェストンという人物が米大陸横断を試み、往復一万ニ千キロを百八十日間で歩いているが、これは一日六十七キロに相当する。東京―小田原間」の直線距離が、約六十七・五キロということを考えると、まさに超人的な記録といってよい。ほかに五十キロ程度の記録はあるが、日本人では十年前、早稲田大学の学生五人がサンフランシスコーニュヨーク間六千キロを、一日平均三十三キロで歩いた。

 もっとも、徒歩旅行は現代では道楽であって、旧幕時代のようにもっぱら必要に迫られてというものとはちがう。忍者は時速十六キロ、一日にその十倍を〃歩く〃のが定法だったという。胸に笠をあてて、それが滑り落ちない速さと云フのはあまりアテにならないが、速さのほうはプロとしてこのくらいは当然だったようだ。ちなみにマラソンは時速二十キロ程度。

 一般の旅人は、一日に十五〜二十キロ(四〜五里)も歩ければよいほうだった。芭蕉は奥羽地方の旅行に、約千五百キロを半年がかりで歩いているが、これは風流の旅だから一日に十キロ足らず。もっとも、用のないところはかなり飛ばしており、たとえば初日は深川から草加まで、およそ二十キロを歩いている。さすがに疲れたらしく、「やうやうたどりつきにけり」と記してはいるが……。

 旅をいそぐのは、スピード記録のためではない。ごまの蝿や追剥ぎに代表されるように、道中の治安が極度に悪かったからだ。現に芭蕉自身も京都近郊を行脚中、三人の白波に襲われたという。このとき彼は「わしのような乞食坊主に金があるわけもないが、おまえたちも行きがかり上、困るだろうから」と、背中の風呂敷包みを投げ出した。盗賊どもが寄ってたかって拾いあげてみると、俳句の下書き以外になにもない。あきれて顔を見合わせているところを、芭蕉はみずから袈裟衣と下着を脱いで与えた。

 いささかできすぎたエピソードだが、風流の旅が険呑さと背中あわせになっていたことはたしかなようで、『奥の細道』で鳴子温泉から出羽へ抜ける山道でも、案内の男に導かれて昼なお暗い道をたどりながら、「今日こそ必ず危き目にも会ふべき日なれ」と、びくびくしている。ようやく山を超えたあと、その案内人から「此道必ず不用の亊(恐ろしい亊)あり。恙なく送り参らせて仕合せしたり」と打明けられ、動悸がとまらなかったという。

漂白の人生

「宿についたら、家の勝手や避難所をよく見ておけ」というのは、当時の『旅行用心集』という本の教訓で、これは現代にも通用するが、そのあと「座敷の壁に持物を立てかけるな。疊の落ちこんで柔らかなところは、持ちあげて調べよ」とか、「蚊帳に寝るときは、夜盗に釣手を切られて押し包まれぬよう、壁に添って臥すべし」などという注意になると、およそ現代人の想像をかけ離れている。

 旅の途中で、病死する危険性もあった。芭蕉の「野ざらしを心に風のしむ身かな」という句も、行き倒れて白骨を野辺にさらす覚悟を述べている。ましてや、彼は病気がちの身だった。胃腸病と痔疾に終生悩まされたというが、旅には適さぬ体質である。

 元禄二年、奥羽行脚を思いたったときの彼は、すでに四十六歳だった。それも従来試みてきた小旅行とはちがう。

「前途三千里の思ひ胸にふさがりて」とあるが、当時のことだから正確な距離もさだかではなかったろう。生きて帰れるかどうか心もとなく、長年住みなれた深川の芭蕉庵を人にゆずったというのも、けっして大げさな行為ではない。

 それほどまでにして、なぜ旅に出たかったのか。『奥の細道』の有名な書き出しの一節が、その理由を端的に示している。「月日は百代の過客(永遠の旅人)にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老を迎ふる者は(すなわち船頭や馬子のような生業は)、日々旅にして旅を栖とす。故人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず……」

 芭蕉の経歴は、肝心の部分がナゾに包まれている。伊賀上野の無足人(むそくにん)〔郷土級の農民〕に生れた彼は、藤堂良忠に出仕して愛寵をうけ、俳諧の手ほどきをうける。その主君が夭折したことが衝撃となり、暇乞(いとまご)いをしたが許されず、意を決して出奔したというのだが、ここに何かが隠されている。もう一つは当時愛人がいて、のちに尼となって寿貞(じゅてい)と称したというのだが、実質的なことはわかっていない。

 芭蕉の人生観を形づくった無常感や漂泊の思いは、おそらくこの若いときの事件に関係がある。まもなく、当時新興都市の雰囲気がのこっていた江戸で、俳諧師として一旗あげることになるが、有名になったとはいえ、弟子に養われる不安定な生活である。世俗的な野心もやがて失せ、時の流れ、自然の変化に身をまかせ、それと一体となるという悟りの境地に入っていく。風雅の心―――。

  五月雨の降りのこしてや光堂(平泉)

  夏草や兵どもが夢の跡(〃)

  荒海や佐渡によこたふ天河(越後路)

  一家に遊女もねたり萩と月(市振)

  塚も動け我泣く声は秋の風(金沢)

奥の細道』のいずれの句をとっても、そこには〃旅の情〃がたっぷりふくまれている。とりわけ「塚も動け」の句は金沢の俳人の死を弔うたものだが、多感な漂泊の詩人の面目が躍如としている。

五年も費やして完成

 元禄七年、五十一歳で西国行きを志した彼は、ついに大坂の客舎で倒れた。「泄痢(せつり)」のためというが、食あたりだろうか。この死因についても臆説が入り乱れているが、それはどうでもよい。「旅に病んで夢は枯野(かれの)をかけ巡る」という遺作−おそらく彼の最高の作だけを念頭においていればよい。俳諧に生き俳諧に死んだといえば聞えはいいが、当人にとっては苦痛であったかもしれない。生死の境にあっても、なおいっさいを捨てた、澄み切った心境になれず、せわしなく風雅の道に執心している、というのだ。

 この旅で彼は久方ぶりに郷里を訪れ、『奥の細道』の清書本を兄の半左衛門のもとにのこした。能書家の素龍(そりょう)に書かせたもので、推敲に五年間を費やし、完成したばかりであった。死後、この本は遺言によって弟子の去来に譲られたが、さらに去来が死んでからは、錦渓舎琴路など芭蕉を愛する人々によって伝えられ、現在は敦賀市の西村弘明氏が所蔵している。茶色の鋸歯状文様の表紙、中央に題簽があり、本文は五十三丁、字詰は八行どり、大きさは約十六×十四センチの枡形本で、錦渓舎が作成した箱におさめられている。元禄十五年には、これを透き写しにした本が、井筒屋庄右兵衛により刊行されている。

 芭蕉の紀行には、よく知られているように『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』その他があるが、発表を前提にしたものは本書だけである。句集は若いときに二冊出版しているが、名聞を求めなくなった中年以降は、まったく自著を出していない。そのような彼にとって、『奥の細道』は文字通り一代の決算であった。

 芭蕉の代表作というだけでなく、この本は近世の日本文化を代表する書物の一冊といえる。その理由は、決定稿の清書を担当した素龍が本書のあとがきに記している。「からびたるも、艶なるも、たくましきも、はかなげなるも(枯淡、優艶、力強さ、はかなさも)、おくの細みちもて行くに(読み進むうちに)、おぼえずたちて手たたき、伏して村肝(感動)を刻む」

 詩人萩原朔太郎は、若いとき芭蕉ぎらいだったが、年齢とともに深く引きこまれるようになったと告白している。

「日本に生れて米の飯を五十年も長く食っていたら、自然にそうなってくるのが本当だろう」という。昨今のように米の飯がパンにかわりつつある時世でも、芭蕉の発掘した日本人の心は不易であろう。