2000.10.30入力&2002.11.06更新

乱世庶民の夢『御伽草子』

竜宮パック旅行・中世のガール・ハント・カラー版の挿絵入り

竜宮パック旅行

「絵にもかけない美しさ」といえば、ああ竜宮城のことか、と誰にでもわかる。月並みな「絵のような美しさ」という慣用語を、作詞上のゆごうとはいえ「絵にもかけない……」と七五調の言いまわしにしたところに、明治四十四年版小学唱歌の作詞者の苦心を見ることができる。

 御伽(おとぎ)草子は日本版の庶民文学だから、わかりやすい月並みな表現で書かれている。竜宮城は「銀(しろがね)の築地(ついぢ・塀へい)をつきて、金(こがね)の甍(いらか)をならべ門をたて、いかならぬ天上の住居も、これにはいかで勝るべき」という調子。宮殿の周囲のありさまも、「まづ東の戸をあけて見ければ、春の景色と覚へて、梅(むめ)や桜の咲き乱れ、柳の糸も春風に、なびく霞(かすみ)のうちよりも、鶯(うぐひす)の音も軒近く、いずれの木末も花なれや」というぐあいで、すこぶる快調に南は夏景色、西は秋、北は冬が出現する。タイやヒラメの舞いおどりというのは、後世童話作家の脚色で、第一、竜宮城は海底にあるのではなかった。それよりも、室町時代の民衆は、四季を同時にパノラマ風に見せる庭つきの一戸建に、いたく想像力をかきたてられたのだろう。同じ御伽草子にある「酒呑(しゆてん)童子」の鬼の宮殿でさえ、四方に四季をしつらえている。

 ところで、古代の伝説によると浦島太郎は美男子だったようだ。浦島伝説を記した最も古い文献、奈良時代の『丹後風土記』によれば、「ひととなり容姿秀美(すがたうるは)しく、風流れ(みやび)なること類(たぐひ)なかりき」となっている。あるとき海に出て一匹の亀(かめ)を釣ったところ、それがたちまち美女に化身して、「風流之士(みやびを)、ひとり蒼海(うみ)に汎(うか)べり。近(いた)しく談(かた)らはむおもひに勝(た)へず、風雲(かぜくも)の就(むた)来つ(雲に乗って飛んできました)」という。つまり、水もしたたる美男ぶりに、仙女のほうからモ―ションをかけてきたのである。

 かくて二人は蓬山(とこよのくに)へ行き、夫婦之理(みとのまぐわい)をする。神婚伝説とはいえ、浦島が美男であるところに最低限のリアリティ―があるものを、御伽草子になるとパッとしない、親孝行だけが取柄の若者になりさがってしまう。庶民向きの改訂だが、仙女と契りを結ばせる必然性がなくなってしまった。

苦心のあげく、浦島が彼女をはるばる竜宮城にまで送り届けた〃縁〃ということにこじつけている。「はるばると送らせ給ふこと、ひとへに他生の縁なれば、何かは苦しかるべき」とあるが、やはり苦しいことにかわりはない。のちの童話が、さらに浦島の竜宮パック旅行といった筋書きに再改訂されてしまったのも、むしろ当然といえよう。

 中世のガール・ハント 同じ太郎でも、北アルプスは穂高神社の裏手に、物くさ太郎の塚というものがある。この地方、つまり長野県南安曇(あずみ)郡に伝わる奇妙な男の野放図な出世物語は、一種のスーパーマン伝説として民衆の喝采(さい)を博した。

 筑摩(つかま)の郡(こおり)に、物くさ太郎という者がいた。名は物くさでも、家づくりのありさまは人にすぐれていた。四面に築地を設け、三方に門を建て、池を掘り、主屋(おもや)には檜(ひのき)の皮をふき、九間の渡り廊下をつけ、「錦(にしき)をもつて天井をはり、桁(けた)うつばり、たる木の組み入れには、銀金(しろがねこがね)を金(かな)物にうち、瓔珞(やうらく)の御簾をかけ、馬屋侍(さぶらひ)所にいたるまで、ゆゆしくつくり立て居ばやと、心には思へ共(ども)、いろいろ事足らねば、ただ竹を四本立て、こもをかけてぞ居たりける」

 このオチは見事で、前代までの貴族や僧侶(りょ)の発想にはなかったものだ。おそらく、ここで中世の読者はドッと笑ったのだろう。

 ぐうたらの元祖のようなこの男、不自由な住いながら、手足のひび、あかぎれ、衣服のノミ、シラミにいたるまで不足するということがなかった。あるとき近所の者からモチを五つもらったが、一つ食べのこしたのを「寢ながら胸の上にて遊ばかして、鼻あぶらをひきて、口に濡(ぬ)らし頭(かうべ)にいただき、取り遊ぶほどに取りすすべらかし」、道のまんなかに落してしまった。それをひろうのもめんどうくさく、だれかが取ってくれるまで三日間も待ち呆(ほう)けていたところ、通りかかった地頭がおもしろがって、村人に扶養義務を負わせる。

 三年後、この信濃の国司で京都在の二条大納言が、村に長夫(ながふ・長期の人夫)を求めてきた。村人は厄介払いにいいチャンスと、物くさ太郎を京にのぼらせる。大納言のもとに住みこんだ太郎は、とたんにまめな男となって、仕事にはげむ。これは当然だ。働いても働いても楽にならぬ庶民の境遇では、寝ているのが理想であり、出世の機会があれば奮起するのが人情であろう。

 やがて雇用期間が過ぎて郷里に帰るとき、彼は宿の主人に「女房が欲しい」といいだす。主人はあきれたが、「それなら辻(つじ)とりをしろ」という。いまのガール・ハントだ。

それならと、太郎はボロの単衣(ひとえ)に竹の杖(つえ)をつき、水洟(ばな)をすすりながら、清水寺の大門のそばで、両手をひろげながら女を物色にかかる。

 こんな調子だから、来合わす女はみな逃げてしまう。ようやく、年のころなら十七、八、「形は春の花、翡翠(ひすい)のかんざしたをやかに、青黛(せいたい)のまゆずみは、はなやかにして……金色の如来の如し」という女がやってくる。太郎はやにわに女の笠(かさ)の中に汚ならしい顔をさしいれ、腰に抱きついてしう。女はおどろくが、いなか者とあなどって、自分の住居は松のもとだから訪ねていらっしゃいと、謎(なぞ)ではぐらかそうとする。ところが太郎は頓智(とんち)を働かし、松明(たいまつ)のもとは明るいので「心得たり明石の浦のこと」というぐあいに、女のもちかける謎をつぎつぎに、快刀乱麻のいきおいで解いてしまう。

 カラー版の挿絵入り 謎のつぎは歌合戦である。女が、「唐竹を杖につきたる物なれば、ふし添ひがたき人を見るかな」――竹の杖などついているような男と寝たくない、というと、太郎は「何かこの網の糸目はしげくとも、口を吸はせよ手をばゆるさん」――人目なんかかまうものか、接吻(ぷん)してくれたら手を離そう、というぐあいにあくまで迫る。歌のかけあいという趣向は貴族趣味の名ごりだが、このしぶとさ、強引さは乱世庶民のものだ。

 けっきょく女は根負けして男を受け入れる。のち、太郎は皇孫の血すじとわかり、出世するという話。昔話の「三年寝太郎」と同工のストーリーだ。

 この種のお伽ばなしは、南北朝時代から江戸初期にかけてつくられ、現在五百種ほどが伝わっている。そのなかには、塩焼きの出世物語「文正(ぶんしょう)草紙」、鉢(はち)を頭にくっつけた少女が貴族の嫁になるというシンデレラ物語「鉢かづき」、「親孝行の漁夫」が観音の化身によって長者となる「(はまぐり)の草紙」、高野山の法師の数奇な身のうえを描いた「三人法師」、さらにわ摂津の伝説「一寸法師」などがふくまれている。

 作者の多くは、当時將軍や大名のお伽衆となっていた僧侶、連歌師、武士、医者などと推定されている。こうした者たちが、主君のつれづれをなぐさめるために、仏教伝説や民話をもとにつくりあげたアダルト・ファンタジー、つまりヒゲのはえた大人のためのなぐさみ話というのが、御伽草子の原型であろう。

 教養に乏しい武家が相手だから、他愛ない話も多いが、エネルギッシュな庶民の出世物語を扱ったものが多いのは、時代の流れというほかはない。もっとも、出世すると貴族に変身するあたり、彼らの夢はやはり宮廷や上流文化にあった。それは、いまの民衆も変わらないといえる。

 御伽草子は、やがて勃(ぼつ)興してきた町人に愛好され、絵巻や肉筆の絵本(奈良絵本)として普及した。「物くさ太郎」を例にとると、表紙は濃紺の地に菖蒲(しょうぶ)や水草をあしらい、見返しに金箔(ぱく)を散らした上下二冊夲で、タテ十六・四センち、ヨコ二十四・三センチの大きさ。本文は鳥の子紙で、手彩色の絵が十枚入っている。

 さらに享保ごろ、大坂心斎橋の渋川清右衛門という本屋が、「文正草紙」や「浦島太郎」など、一般むけの二十三種を版本の叢(そう)書として売り出している。当時の値段は八匁いまのお金にして五、六百円以上である。裏長屋の庶民には〃手にもとれない〃豪華本であった。

HP補遺室町物語(御伽草子)・「御伽草子浦島太郎(浦島伝説浦島太郎伝説の謎)・ものくさ太郎鉢かづき酒呑童子一寸法師一寸法師(原文・現代語訳)など。