2000.05.06〜2005.10.06更新
10、『将門記』叛徒の墓碑銘[62頁]
古代⇒「首塚の怨念」「造反將軍の興亡を描く」「雄壮な軍記文学の第一号」
「首塚の怨念」 高層ビルの林立する東京のビジネス街大手町の中心地、一丁目一番地一号の主(ぬし)は誰かと問えば、いずれ大手の銀行か不動産会社だろうという答えがかえってきそうだが、実は今は去ること一千年前の人物なのである。
土一升金一升の土地が百坪あまりも空白になっており、その一角に高さ百三十センチほどの風化した供養塔がある。献花は真新しく、玉砂利も清められている。周囲にせまる超近代的な建物との異様な、というよりも不気味なほどの対比。お隣の銀行の守衛さんに訊(き)くと、「この寒いのによく参詣(さんけい)人が来ますよ。さあ、どんなご利益があるんですかね」という。
平将門(まさかど)の首塚――。およそ遺跡などというものは、開発その他の名目によりたちまちブルドーザーで蹂躙(じゅうりん)してしまうようなお国柄、しかも特級地で、なぜこの場所だけが温存されているのだろうか。
明治時代、ここは大蔵省の裏門から玄関に至る道路の左手にあたり、大きな池の端に古い碑があったという。天慶(てんぎょう)三年(940)、平貞盛らの軍勢に敗れた将門の首が、遺臣たちによってこの場所に葬られたのである。その後、将門の霊は神田明神に祀られたが、首塚に怨念はのこった。当時、大蔵省は木造の二階建であったが、改築をしようとするたびごとに落雷や火災に見舞われ、関東大震災直後の仮庁舎には病人が続出し、大臣をはじめ十四人の高官がつぐつぎに死亡した。まるで、平安時代の怨霊さわぎである。
この仮庁舎は、落雷で全焼、戦後は大蔵省も嫌気がさしたか、いまの霞ヶ関(かすみがせき)に移転してしまった。首塚には米国の極東地区最高司令長官であったマッカーサーも畏れをなして近寄らず、ようやく政府が国税局を含む合同庁舎を建てたときも、建築現場で大きな陥没事故があり、隣接の銀行でも首塚に背を向けて仕事をしていた部長が病気になり、部員一同あわてて机の向きを変えるということがあった。
いちいちあげていたらキリがないが、つい最近も首塚のはす向いにビルを建築中の某商事会社が、お祓(はら)いをしなかったためか、土地の払下げ問題がこじれて、建築費暴騰のさなか工事が一時ストップしていた。右横のビルは、入念にお祓いをしたおかげで完成したが、ちゃんと首塚に尻を向けぬよう設計されている。
いま、この首塚は東京都の旧跡となり、有力企業が保存会をつくって、毎年九月にものものしい慰霊祭を行っている。大蔵省も、なにしろ付近に東京国税局があるので、国家予算で供養をしている。ことほどさような次第で、今後改革でもない限り、いや革命でもあればなおのこと、大手町一丁目一番地一号の主は、平安中期の逆臣平将門であることには変わりはないのである。
「造反將軍の興亡を描く」 「一国を討つと雖(いへど)も公けの責めは軽からず。同じくは坂東(ばんどう)を慮掠(りょりゃく)して、暫(しばら)く気色を聞かん」〔原漢文〕
天慶二年、常陸(ひたち)の国府を襲った将門は、わずか千余名の手兵をもって、三千余の国軍を破り、巫女(みこ)のお告げによって“新皇”を名乗り、坂東八国の併呑(へいどん)に着手する。このとき参謀の興世(おきよ)王が、一国を侵略するだけでも朝廷の刑罰は重い、どうせなら坂東八国をかすめとって、相手の出方を窺(うかが)うべしと進言する。
もともと将門は桓武天皇五代の子孫で、常陸の受領(ずりょう)〔地方行政官〕だった父良将(よしまさ)の子であるが、その父の死後、所領を伯父の国香(くにか)や良兼に侵略された挙句、ついに武力をもって立ち上がる。現在残っている『将門記』の巻頭部分は、国香の軍に待ち伏せをくらった将門の活躍ぶりを描いている。
「ここに将門、罷(や)めんと欲するに能(あた)はず、進まんと擬するに由なし、然(しか)れども身を励まし、勧み拠り、刃を交へて合戦す。将門、幸ひに順風を得て、矢を射ること流るるが如く、中(あた)るところ案の如し」
国香は殺され、良兼は敗走する。怨(うら)んだ良兼は、将門の妻子を殺害したうえ、夜討をかけるが、失敗する。
「将門眼をはり、歯をかみ、すすんでもつて撃ち会ふ。ときに件(くだん)の敵等、楯(たて)を捨てて雲の如く逃げ散ず。将門、馬にかかりて風の如く追ひ攻む。これを逃るる者は、さながら猫に逢へる鼠の穴を失ふがごとく、それを追ふ者は、たとへば雉(きじ)を攻むる鷹(たか)の?(ゆがけ)を離るるが如し」
疾風迅雷、阿修羅(あしゅら)さながらの武者ぶりが農兵たちを惹(ひ)きつけ、やがて中央への対決姿勢を強める彼を支援していく。農民や土豪たちは、将門の坂東八国ユートピアの可能性に賭(か)けた。腐敗した藤原摂関家体制には、こうした土着受領らの反乱を鎮める力はなかった。
「よって京官騒動す。ときに本天皇、十日の命を仏天に請う。その内に名僧を七大寺に屈し、礼奠(れいてん)を八大明神に祭る」
朱雀(すざく)天皇が、神に十日間の命乞いをしたというのであるから、まさに将門パニックである。窮余の一策、政府は下野(しもつけ)の豪族藤原秀郷(ひでさと)と平定盛(国香の子)の連合軍に追討を命じる。両軍激突の日は強風が吹いていたが、逆風に馬の足をとられた将門は引き返そうとしたとき、流れ矢に額を射られて憤死してしまう。新皇を名乗ってわずか三ヶ月。「天下にいまだ將軍自ら戦ひ、自ら死せるものはあらず」と、『将門記』の筆者は惜しんでいる。
ただし、この筆者は将門の短所をも冷静に指摘している。「学業の輩をもののかずとせず、ただ武藝の類をもてあそんだ」、つまり、粗暴な武藝一点張りだったのが破滅の元といい、筆者自らの意見として、「人々心々、戦あるも戦はず。もし非常の疑ひあらば、後々に達せん」《人々よ、戦うなかれ、戦わねばならぬような事態も、時が解決してくれる》と、絶対平和の思想を述べている。十世紀としてはすこぶる大胆な考え方といわねばなるまい。
「雄壮な軍記文学の第一号」 『将門記』の筆者は不明である。原書は漢文で、学識のある僧侶だろうという。天慶三年六月、つまり、乱の六ヵ月後に書かれたと、写本の奥書にある。いま最も古い写本は承徳三年(1099)のもので、巻頭の部分が欠けている。『古事記』と同じく名古屋市大須二丁目の宝生院〔北野山真福寺〕にある。巻子本で、幅27.7センチ、全長11メートル66センチ。筆者はきわめて達筆で、本文の一部には斜線なる字画を太く書くなど、遊びが凝らされている。重要文化財としても異色といえよう。この寺の文庫は、南北朝の頃、現在の岐阜県羽島市大須に真福寺を開いた能信上人の蔵書にはじまり、慶長十七年(1612)徳川家康の命により寺とともに現在地に移された。大須に貴重書が集まったのは、むかしこのあたりが商業的に栄えたからであろう。
将門は、当時の賊臣であるから、書かれた記録は少ない。『将門記』は信頼するに足る唯一の資料といってよい。原稿用紙にして三十枚足らずだが、軍記文学の第一号であり、文章は雄勁(ゆうけい)である。そのわりに読まれていないのは、戦前の史観で朝憲紊乱(ぶんらん)者として扱われていたことや、原文が変体漢文で難解ということが原因であろう。しかし、現在は将門の研究も進み、読み下しによる注釈文も赤城宗徳氏によるものほか一、二種が出ている。
将門の実体が知られぬ中世、近世には、いわゆる将門伝説が関東地方を中心に、遠く北は青森、西は広島あたりまで、止め処もなく広がった。京都で獄門にかけられた将門の首が夜になると目を開いて笑い、「ムクロあらば今一度合戦すべき」と呼ばわったという話はよく知られている。このとき、見物のなかの瓢軽者が、
将門はこめかみよりぞ射られけり俵藤太(たはらとうだ)がはかりごとにて
と詠んだ。これが狂歌本の落首のはじまりといわれるもので、俵藤太は、藤原秀郷の俗称である。
とはいえ、痛快な反逆の人を支持する民衆の情念は滅びなかった。大塩平八郎、佐倉宗五郎、西郷隆盛らのケースと同じである。江戸時代には、光圀(みつくに)が『大日本史』のなかでいくら将門を罵倒(ばとう)しても、民衆は神田明神の盛大な祭りをやめなかった。将門の首は、いまでも大手町で“祟(たた)っ”ている。神田明神のほうはなぜ祟らないか。このへんに問題を解くカギがありそうだ。
《参考資料HP》