2000.09.17
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『とはずがたり』鎌倉一代女[104頁]中世⇒「
六百数十年埋もれた書物」「オール男性の標的」「合血の出るような生臭さ」「
六百数十年埋もれた書物」 宮内庁書陵部は、皇居の旧本丸の高台にある。もと図書寮といい、遠く奈良時代からの歴史があるので、皇室を中心とする文書が約三十五万点も収蔵されている。旧本丸の周辺といえば、都心とはとうてい思えぬ閑寂な場所だが、むろんやたらに近づける場所ではない。この書陵部の蔵書を見るにしても、許可をうけた専門研究者や大学院の学生外はオフ・リミットだ。――昭和十三年冬、そうした専門研究者の一人が、書庫の奥から一組の写本を発見した。水色の表紙に菊や薔薇(ばら)の模様が描かれ、濃い朱色の短冊に「とはすかたり」としてある。タテ二五センチ、ヨコ一八センチあまりの大きさで、紙は楮(こうぞ)だった。古い目録によると、この本は地理書として分類されているが、だれもくわしい内容を知らなかった。三十五万点もある蔵書のなかで、なにもこんなパッとしない題名の本など調べてみようとする物好きもいなかったのだ。
しかし、その研究者は大正末年いらい十数年間もここへ通いづめだったので、書物に対する第六感が働いたのだった。手にとってみると、江戸中期の写本と思しく、内容は一女人の回想録である。後半に紀行の部分があるので、地理書に分類されたのだろうが、もしかするとこの分類は、大正期の目録作成者の深慮になるものかもわからなかった。というのは、前半の部分に、鎌倉時代の宮中の秘事に関することがらが、きわめて大胆に描きだされていたからである。
「これはたいへんな掘りだしものだ」と、小躍りした研究者は、さっそく全巻を筆写した。かな書きの句読点のない文章には悩まされたが、とにかく写し終わり、何べんも読みなおしてみた。読むほどにその興味深い内容といい、文学性といい、近来の収穫とするに足ることがわかり、さっそく専門誌に紹介の記事を書いた。
この書物は、年代的には十四世紀のはじめごろ、後二条天皇から花園天皇の時代に成立したものらしく、写本としてわずか一本が、明治十七年まで続いた桂宮家に伝わり、書陵部におさまったものと知れた。
だが、せっかくの発見も、戦争に入るや内容の点から本文公開が不可能となり、ようやく戦後になって人目にふれるようになった。じつに六百数十年間も埋もれていた名作。書物の歴史のうえでも、類例のない記録といえるだろう。この書物を発掘した一研究者というのは、国文学界の権威
山岸徳平博士である。「
オール男性の標的」 後深草院は、わずか四歳で天皇の位についた。乳母(めのと)役は大納言の典侍とよばれた美しい女人で、院のお守から教育にいたるすべてを受持った。幼少の院はこの乳母を慕い、とりわけ新枕(にいまくら)のこと(すなわち性教育)を教えられていらい、女人として見るようになったが、そのうちに彼女は源雅忠(まさただ)に嫁して、女児を産んだ。院はとげられなかった恋を、その女児によって果たそうと思い、成人する日を待ち続けたという。その女の子が不美人だったならば、話はこれで終り。『とはずがたり』も生れなかったことになるが、幸か不幸か“オール男性の標的”に生れついてしまった。みずから鏡を見るたびに、「これが自分の顔だろうか」と歓喜の念をおさえきれなかったという。そのうえ才気煥発(かんぱつ)ときている。早くも四歳のとき院に引取られ、いらい十年間宮中の女人としての教養を授けられたうえ、ついに十四歳のとき院に求愛されて身を任せる。ときに院は二十九歳。待ちきれなかったのであろう。
彼女の本名はわからない。雅忠の女(むすめ)としておこう。このとき、すでに雪の曙(あけぼの)〔西園寺実兼〕という初恋の人がいたので、院の枕席に侍る気はなく、初夜にはヒジ鉄をくらわしたが、二夜目にはそうはいかなかった。
身にまとった薄衣はほころびて、のこるかたなくなり、恥ずかしくてこのまま夜明けがこなければよい、とさえ思った。「心よりほかに解けぬる下紐(ひぼ)のいかなるふしにうき名流さん」(心ならずも院のものとなり、これからどんな悪評判をたてられることだろう)――という心境だったとある。
翌年、父の雅忠は「もし不幸にして院に棄てられたら、生活の道を得るため仏門に入れ。ほかの男に身を任すな。ただし、男女の愛欲は本能であるから、やむをえぬこともある。それなら髪をつけたままで好色の道に入るなどという、家名を汚すことをしてはならぬ。出家すれば自由である」と言い残して亡くなる。
子を見ること親にしくはなし。この父親は、娘の本性を見抜いていたといえよう。皇子が誕生した二年後、彼女は里で雪の曙と密会し、胤(たね)を宿す。当時、院は精進のため女色を断っていた最中なので、当然怪しまれるが、彼女は仮病をつかって里帰りをし、一子を産み落とす。
さらに翌年、高僧有明(ありあけ)の月(院の弟、性助(しょうじょ)親王とされる)から熱烈な求愛を受け、困って院に相談したところ、なんと「密会してもよいし、子どもができたら自分が育ててやろう」といわれる。このあたりは僧侶の腐敗といい、院の変態的な性格といい、驚くばかりである。
だが、当時の宮中における男女関係の乱れは、およそ想像の外である。たとえば、後深草院はその異母妹に、亀山院は皇子の妃とそれぞれ通じていたし、女人の側も負けじと、同時に二人の男と関係し、生れた子どもがどちらの子か疑われるなどという例がざらにあった。院は漁色家で、市井の女や傾城などに手をだし、しかもその手引きを雅忠の女にさせるということまでやっている。有明の月との密通を許したのも、愛する女人がほかの男に抱かれる場面を想像することにより、新しい刺激を味わおうとしたのであろう。
「
合血の出るような生臭さ」 それはともかく、有明の月との関係は三年間にわたり、子どもは二人生れている。さらには近衛大殿(藤原兼平)にも手ごめにされるが、これも院の了解によるものだった。彼女は「こはいかに、こはいかに」と抵抗するが、「年月思ひそめし」などと口説かれて、強引に犯されてしまう。このようなぐあいにして、六年間に計四人の男性と交渉をもち、五人もの子を産む。そればかりか、宮中における後深草院の対抗馬亀山院からも興味を示されるが、色よい返事をしなかった。かねてから彼女を憎んでいた院の正室は、この噂を利用して「亀山殿と懇ろになった」と讒訴(ざんそ)する。いかに変態でも、政治がからんでくると許せない。院はついに彼女を宮廷から放り出してしまう。
かくて三十二歳で出家した彼女は、諸國遍歴に出て、各地を精力的に歩きまわる。美貌の尼さんとして、大いにモテたらしい。あるとき、行幸途上の院にめぐりあい、「いまどんな男といっしょにいるのか」と訊ねられると、「お別れしてから今日まで、そんなことはありませんが、まだ四十に満たぬ身。先のことはわかりませぬ」と応えている。このへんが彼女の身上であろう。
五十歳を過ぎたとき、彼女は自分の思いをむなしくしないために、過ぎ去りし日のことどもを書き残しておきたいと思い立ち、この回想録をしたためた。院をはじめ、時の最高権力者たちの思い者になったという“女の勲章”の記録。当時の感覚からすれば、家名もとみにあがるはずである。好きな男との愛も遂げたし、それによって、自分をおもちゃにした院への復讐を果たした。身体を提供することによって、べつだん後宮政治に根をはろうとしたのでもない。彼女なりに自己を発揚した生き方であった。
情痴生活に溺れたのは、おのれの性(さが)であるという自覚が、彼女にあった。犯された男に惹かれてしまい、「わが心ながらおぼつかなく」という自己嫌悪は、そもそも現世的に生れついた女人の業である。産み落とした子どもと離別するさいにも、母親としての苦悩と現世への厭(いと)わしさを記述している。単なるセックス・アニマルではない。
それにしても、この女人の生臭さはどうか、斬れば血の出る生臭さである。彼女は自分を斬り、返す刀で男を一刀両断にしたのだった。
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HP連関資料] とはずがたり 後深草院二条 年表 従来の学説とその批判『とはずがたり』中世日記紀行文学全評釈集成、西沢正史・標宮子編〔勉誠出版・本体価格 :15,000円〕
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