2002.02.06更新
近世⇒
庶民のサロン『浮世風呂』〔362頁〕―熱湯好きの日本人。裸になれば人間平等。儀作者の商魂―
熱湯好きの日本人
日本人は熱い風呂が好きである。欧米人なら三十八、九度を適温としているところを、日本人は平均四十二、三度、とくに熱湯好きといわれる人になると、四十五度くらいでなければ満足しない。
この四十二度というのは、官製の基準であるという説もある。戦時中、東京の女学生が山形県に疎開し、銭湯に入ったところ淋菌に感染したことが問題となり、当時の厚生省が各地の銭湯に四十二度を義務づけた。この温度で淋菌の澱粉質が凝固するという―。
国民性の問題もあろう。せっかちだから、熱い湯にサッと入ってサッと出る。この方が体内のエネルギー消費量も少なく、心身ともに緊張し、活動的になる。それに湯船の構造上、身体を洗うには出なければならないから、その間さめてしまうのを補うためにも、熱いほうがよい。欧米のバスはその中で身体を洗うので、いきおい二、三十分も入っていることになり、ぬるま湯程度でないと疲労がはげしい。それに彼らは日本人ほど風呂好きでないから、一度入るとたっぷり時間をかけてみがく必要がある。
江戸時代、熱湯好きは町内の話題となり、当人もそれが自慢だったようだ。「名が売れて我慢しとおす熱湯好き」と、天保ごろの川柳にある。「熱湯好きうねばつかりが情を張り」とは、明和ごろの作であり、江戸っ子もつまらぬところに見栄を張ったものだ。鳶の者などはゆでだこのような肌になることを自慢して、水をうめようとする者をどなりつけた。今の公衆浴場のように熱いほうとぬるいほうとが分かれていないから、ほかの客もじっとがまんしてつきあわねばならなかった。『浮世風呂』には昼時の湯へ、年寄りが入る場面がある。
「アイ、年寄りでござい。ヤ、これは能(いい)湯だ。この湯をぬるいといふ人は鉄砲(火をたくかま)の方へ沈か、この格子をはづしてかまの中へ入るが能。ヤレヤレ、けっこうけっこう、アなんみやうほうれんげきやう」
お題をとなえるのは、むかし風呂が寺院の施浴として行われたときのなごりという。
「おめえ熱かァ、香の物を一切れ入れてかき廻しねへ。ソリヤ湧いてきたぞ。ごうてきだア。虱の食た穴へしみて、能塩梅だぜ。体中へ一粒鹿の子の紋が付た」―というのは、点々と赤いまだらがついたのである。
明治に入って東京府は熱湯の弊害を改めようと「凡八、九十度(二十六〜三十二度C)バカリガヨク、熱キ湯ニ入ルマジク……」と通達したところ、ある男が湯槽に何度も出たり入ったりしているので、不審に思った番頭が訊ねたところ、「お上が九十度入れといってるじゃねぇか」と答えたという、まったくの珍談がある。
裸になれば人間平等
「熟監るに」と、著者の式亭三馬は改まって銭湯哲学を説く。「銭湯ほど近道の教訓なるはなし。其故如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴んとて裸形になるは、天地自然の道理、釈迦も孔子も於三も権助も、産まれたままの容にて、惜い欲いも西の海、さらりと無欲の形なり」。生まれたときは産湯をつかい、死んだときは葬灌するのはだれしも同じ、生死一重ということを思わせる。「されば仏嫌ひの老人も風呂へ入れば吾しらず念仏をまうし、好色の壮夫も裸になれば前をおさえて己から恥を知り、猛き武士の頭から湯をかけられても、人込じゃと堪忍を守り、目に見えぬ鬼神を片腕にゑりたるちうつはらも、御免なさいと石榴口に屈むは銭湯の徳ならずや」(参考資料⇒)
いまの風呂屋では、若い男も女も、前をかくさなくなったが、それはどうでもよい。石榴口について注釈しておこう。当時は風呂屋は湯のさめるのをふせぐために、浴槽の前面を板で仕切り、入浴車はその下の隙間から屈んで入った。このことと、金属製の鏡を磨く石榴の酢を結びつけて、屈み入る=鏡要る、すなわち石榴口となったという。
このような設備だから湯の中は暗く、赤ん坊の大便が浮いてもわからなかったという。不潔なのは洗い場も同じだった。
「誰だか糠袋をあけた(石けんが出現する以前に用いられた糠袋は、よくこぼす客があった。)あのざまはい。いけぞんざいな。コレ、コレ。膏薬を足の裏へふんずけた。エエ、きたねへ。ヘツヘツ、痰を吐くやら、かさぶたを落すやら。ヘツ、ヘツ、イヤハヤ埒くちはねへぞ。なん妙法蓮華経」と前途の老人はぼよいている。
江戸の銭湯になれない関西者が、下のものを洗うためにあったふんどしを、サービス用の手拭と間違えて顔を洗い、「アア臭事」という場面など、じっさいにありえたのだろう。
口直しに女湯を覗いてみよう。「春はあけぼの、やうやう白くなりゆくあらひ粉に、ふるとしの顔をあらふ初湯のけふり」という書き出しで期待はさせるが、これまた三馬のリアリズムにかかると、およそ色気など絶無の世界。たとえば姑婆が嫁の悪口をいっている。
「かかアどのは長屋中で評判の引きずりよ。うねががきにはかまはねで、髪頭ばかり作り立て、亭主にはぼろを下げさせるか、屎小便もかけながしで、しめしを一ツ洗ふではなし。・火鉢の中へはぴよつぴよつと痰を吐いて灰でぐるぐるとこるがしての。丸いものをいくらもこせへて置くから、おれが跡から廻っては掘り出して捨てれば、いぢにかかつて、おへつついさまへ液を吐くはな」
若い女なら、少しは色気があるかと思えば、とんでもない。たとえば肥った下女が、石榴口より出しなに仰向けにころぶ。「ヲヲ、あぶねへ。ヤレヤレ、痛かったろう。」
友だちの下女「ヲツト、あぶなし。お開帳なんまみだぶつ」
「しゃれところじゃアねへはな。アア、いてへ」といいながら、顔を真っ赤にして起き上がり、すぐに小桶をとる。
儀作者の商魂
この下女二人の会話には、巧妙なPRがふくまれている。「おらがとこの悪ばは、ホンニホンニいびいびこごとの本家だらうぞ。此間三馬が作で、早がはり胸のからくりといふおかしい絵本が出たの。その中にある姑婆の口まねは、あの婆に正(そっくり)だよ。ソシテあめへたちやおいらが事も書いてある。何でもそこへ出たやうだ。ことし中でおかしい本だと言って、店の衆はてんでんに一冊づつ持て居るよ。借て見な」
『早替胸機関』は文化七年(一八一〇)の出版で、登場人物の口先と本心の違いをいろいろな趣向で見せたものだ。たとえば人を訪問して書画をほめたものが、辞去してから「馬鹿というものはしかたねへものだ。大べらぼうめがハハハハハ」と舌を出す。この表情は貼り絵の下にかくされている。三馬の宣伝通り、ベストセラーとなった。
売れっ子で、生涯に百数十篇の著書を出したとはいえ、それだけでは生活できないとあって、毒消し、毛生え薬、歯磨、化粧品などを扱う店を経営し、『浮世風呂』でも作中の会話や巻末の広告などでさかんに宣伝している。このへんの商魂が、潔癖な馬琴などとはあいいいれぬところだった。
三馬の父親は浅草の板木師で、幼少のころから書店で丁稚奉公に出され、のちに古本屋を開いたりして戯作修行にはげんだ。その人となりは、著書から想像されるものとは逆で、寡黙の、あまりおもしろくない性格だった。このようなことはよくあり、むしろそういう作家ほど人間を客観的に見つめ、辛辣なユーモアを発揮することができる。こわい作家である。
もっとも、彼は庶民の生態を写しはしたが、卑俗に徹したあまりに、庶民が何を求めて生き、そして死んでいくかという精神のあり方までを示すことはしなかった。戯作者の限界といえよう。
『浮世風呂』は文化六年に前編「男湯之巻」上下を出し、大あたりをとったが、火災のため板木を焼失した。翌年、二編「女湯之巻」上下を、さらに翌年三篇「女湯之遺漏」上下を出した。文化十年の四編「男湯再編」三冊には、五編以下も出ることになっているが、さすがに息切れしたらしい。各冊十九〜三十六丁、大きさ十二×十八・二センチである。ほかに同傾向の作として『浮世床』がある。
銭湯にしろ、床屋にしろ、かつては庶民のサロンだった。今は公衆浴場とか理髪店とか言う。名も変わり、体も変わった。
≪その他の参考資料・図書≫
参考資料2 参考図書2
参考資料3
参考資料4
まとめ:国文2年 810094 河野 涼子