2000.05.22入力
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『吾妻鏡』覇者の交替[135頁]中世⇒「
卑小なる死」「中世の開幕」「合意の作り話」「
卑小なる死」治承四年(1180)、以仁(もちひと)王の令をうけて出兵した源頼朝は、東国近在の源氏の家人(けにん)を糾合して伊豆に山木兼隆(かねたか)を敗ったが、石橋山の戦いに敗れて安房へ逃れ、再起して十月二十一日、富士川の合戰に平家軍を敗った。「廿日、巳亥、武衛、駿河の国賀嶋に到らしめ給ふ。また左少将維盛、薩摩の守忠度、参河の守知度等、富士河の西の岸に陣せらる。而るに半更に及んで、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処に、富士沼に集まる所の水鳥等群立つ。その羽音偏に軍勢の装ひを成す。これに依って平氏等驚き騒ぐ。爰に次将上総の介忠清等相語って云く、東国の士卒は、悉く前の武衛に属す。吾等なまじひに洛陽を出て、中途に於いてすでに囲みを逃れ難し。速かに帰洛せしめ、謀りを外に構ふべしと。羽林以下その詞に任せ、天曙を待たず俄に以て帰洛しをはんぬ。時に飯田の五郎家義、同子息太郎等、河を渡り平氏の従軍を追奔するの間、伊勢の国の住人伊東武者次郎返し合わせ相戦ふ。飯田の太郎忽ち射取らる。家義また伊籐を討つ。印東の次郎常義は、鮫ヶ嶋於いて誅せらる。」
(『吾妻鏡』治承四年十月)平家の武将の言動までが描かれていて、後世の作文であることが一目瞭然である。本書が成立したのは
鎌倉時代後期というが、江戸時代の学者が北条泰時・時頼の時代という説を提出していらい、今日まで論議が絶えない。治承四年の頼朝挙兵から、文永三年(1266)七月の宗尊親王帰京に至る鎌倉幕府のプロローグ八十六年間の記録であるが、かなり丹念に月日を追ってドキュメンタリー風に描かれており、文書類も現物を引用されているので、史料的価値は認知できよう。しかし、記述者が何人かの手により、時代を隔てて手がけたものと思われ、前半にくらべて後半が粗雑であり、途中九年分が脱落したりしていて、いわゆる公式記録とは考えにくいところもある。早い話が、最大の立役者
頼朝の死因にしても、口を閉ざして語るところがない。一般には正治元年(1199)、御家人稲毛重成(しげなり)が亡妻の冥福を祈ってつくった相模川の橋供養に臨んでの帰途、落馬して重傷を負い、それがもとで翌年正月死亡したというのだが、本書ではその前後の記述が全く欠けており、何らかの暗い事情さえ推測しうるのである。頼朝の死因を明記するのが体裁の悪いことなら、単に病死とすればよいのであるが、当時あまりに知れ渡ったことなので、曲筆にも限度があると考えてのことだろう。大将軍の卑小なる死――、これを表現するには一流の史観を要する。しかし、『吾妻鏡』の筆者は役人にすぎなかった。
「
中世の開幕」「葛西の三郎清重、奥州所務の事を仰せ付けらるるに依って、還御の時供奉せしめず。彼の国に留まる所なり。よって今日、條々の仰せ遣わさる事有り。先ず国中に、今年稼穡不熟の愁い有るの上、二品多勢を相具し、数日逗留せしめ給うの間、民戸殆ど安堵し難きの由聞こし食すに就いて、平泉の辺殊に秘計の沙汰を廻し、窮民を救わらるべしと。よって岩井、伊澤、柄差、以上三箇の郡は、山北の方より農料を遣わすべし。和賀、部貫の両郡の分は、秋田の郡より種子等を下し行わるべきなり。」頼朝“善政”の一つと云うべきではないか。平泉の辺を重視せよというのは、奥州征伐直後の人心収攬(シュウラン)策であろう。とりわけ、この頃の耕作は片あらしという二圃(ホ)制(土地を隔年ごとに耕すこと)で農〓〔米+斤〕(肥料)の援助は大きな施しと受け取られた。とにかく“票”になるのだ。
同じ年(文治四年)の二月三十日の条に、こんな記載がある。
「また安房、上総、下総等の国々多く以て荒野有り。而(しか)るに庶民耕作せざるの間、更に公私の益無し。よって浪人を招き居き、これを開発せしめ乃貢(ノウグ)に備うべきの旨その所の地頭等に仰せらる」
浪人を積極的に吸収し、生産力を高め、税を納めさせる。その監督役としての地頭制度は、すでに整っていた。文治元年(1185)十一月十二日の条でいう。
「凡そ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ思し食し煩わるの処に、因幡の前司廣元申して云く、世すでに澆季に属し、梟悪の者尤も秋を得たるなり。天下に反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こらんか。これを相鎮めんが為に、毎度東士を発し遣せらるれば、人々の煩いなり。国の費えなり。この次でを以て、諸国の御沙汰を交え、国衙庄園ごとに守護地頭を補せらるれば、強ち怖れる所有るべからず。早く申し請けしめ給うべしと。二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり」
これは朝廷に対し、
義經、行家両人を探索することを口実に、守護地頭制を布くことを提案したということである。朝廷は幕府勢力の増大を怖れながらも、十一月末にはこれを承認してしまった。――というのが『吾妻鏡』の主張であり、これ以後の史書にも踏襲されているのだが、近年の研究に拠れば、実は地頭の職は
頼朝挙兵から東国支配完了までのプロセスのなかでとっくにできあがっており、既成事実の承認にすぎなかった。むしろ、ねらいは別のところにあったとする。つまり、同時代の史料『玉葉』(
九条兼実著、1164〜1200)には、地頭などの名は出て来ず、兵粮(ヒョウロウ)米(軍事費)として反当たり五升の徴収が認められたという記述が共通している。ちなみに「守護」の職名は当時はまだなく、総追捕使(ツイブシ)と称した。『吾妻鏡』の記述は明らかに遡行(ソコウ)規程で、しかもことさらに義經逮捕のための地頭設置を強調し、兵粮米の件を軽く見せようとしている。だが、荘園ごとに軍事費を徴収することが主眼であったとすれば、実質的には朝廷に替って地方行政機構の根底を掌握してしまったことになり、問題の大きさがちがってくる。政治は貴族の手から武士の手へと、あっさり移ってしまったのである。これは日本史上、特記すべき事件といえるだろう。なにしろ徳川時代をふくめて、以後の六百八十年間、武家の政権が存続することになったのだから。
「
合意の作り話」しかし、政治家とはしょせん現実の人である。十年、二十年の将来を予見する力はもっていない。勢いに乗じた頼朝は、朝廷の改造まで企て、議奏公卿として九条兼実を指名、これと結託したのはよいが、兼実が土御門通親(つちみかどみちちか)の陰謀により失脚してしまったのは寝耳に水であった。さらに自分を擁立した武士団が一人歩きをはじめる事態を予想しえなかった。武士団から見れば,頼朝は「玉」といって語弊があれば、一種の“機関”にすぎなかったのである。はたして
頼朝の死後、政治力乏しい頼家・実朝の時代になると、源氏による支配力はゼロとなり、両名の暗殺という形で血脈は途絶えてしまう。『吾妻鏡』は、頼家の死については、伊豆修善寺で「痢病」のために死んだといい、実朝についてはやむなく状況だけは伝えているが、事件の背景については何も語らない(『金槐和歌集』の項参照)。このように曲筆の多い書物ではあるが、考えようによっては、そのことじたいのなかに時代の性格が語られているともいえる。一般論として、権力というものの基盤やその抗争の実態について、これほど“沈黙の雄弁”をもって語った書物も珍しいといえる。従来から研究者を惹きつけてきたのは、そのような意味での想像力をかき立てられるからである。
頼朝の死についても、前述の推測以上の事実が隠されているかもしれないのである。「歴史とは、合意の上ニ成り立つ作り話以外のなにものであろうか」とは、周知のナポレオンの警句だが、『吾妻鏡』は何者の合意の上に立った書物であろうか。衆目のみるところ、それは源氏に替った武士団の頭目
北條氏である。「鏡」は「鑑」に通ずるというが、なるほど歪んだ鏡からも、実像はどこかに写し出されているものだ。本書の原本はすでにない。写本は島津家本、北条本、吉川本その他があるが、このうち
北条本は、永正・大永ごろ(十六世紀初)の写本で、もと北条家に伝わったが、天正十八年(1590)の小田原の役に和議の役を果たした黒田如水に贈られ、慶長九年(1604)徳川家康に献上された。家康は慶長十年、これを活字にするほどの惚れこみようであった。したがって、活字本はさまざまな形のものがつくられ、江戸全期を通じて流布したが、大本の写本は現在
内閣文庫(紅葉山文庫藏)にある。五十一冊で四十五巻目が欠。大きさ縦26.8×横20.0センチで、表紙は薄茶色に題簽(ダイセン)。本文は目録八ページで、系圖七ページのあとに書き出しがある。薄手の楮紙に裏打ちがしてあり、表紙とともに後世の修覆であろう。丁数は第一巻が七十六丁、以下五十六丁、六十一丁、三十五丁……と続き、各冊四、五十丁である。行数は九行詰となっている。《
HP連関資料》訓読『吾妻鏡』→吾妻鏡を読んでみませんか?。使用した吾妻鏡は?→汲古書院発刊の「振り仮名付き 吾妻鏡 寛永版影印」。 『鎌倉年代記』。『天養記』(神奈川県史)。『陸奥話記[一名陸奥物語]』(続群書類従)。 神奈川県立金沢文庫→図書室のページ。 古今無想→年表。鎌倉史人物一覧。系圖。