2001.06.12[
表現法・実用表現法]話しことば〔すてきな挨拶〕を実践するために
―小説家&エッセイストの
丸谷才一さんの『挨拶はたいへんだ』をもとに―
この丸谷才一
(まるやさいいち)さんの『挨拶はたいへんだ』は、いわば、日本人として人前で話すことの教科書ともいえる。それは、丸谷さんがまさにあいさつを実践してきたその足跡でもあり、その場の一挙手一投足を臨場感あふれる文章をもって自ら回顧しつつ、その「あいさつ」の話しを仕立てているからであります。これまで、表現法&実用表現法では、“
話しことば”についてさまざまな角度から検証を続けてきました。そして、いよいよ大詰めを迎えようとしています。そう、自らが「挨拶」ならぬお話しを人前でしてみるということ、その実践活動が今季最初の貴女方の最初の課題でもあるからです。その“
話しことば”すなわち「あいさつ」の生きた基本的心構えを少しでも理会する、その手がかりともなればとこの講義の指導者である私はいま思っています。丸谷さんが一途最初に挙げている「あいさつ」はどんなものでしょうか。小説でもエッセイでも最初の書き出し、いや、話しの出だしは重要な鍵を握っています。そして、最後の「あいさつ」はこれまた、どのような終幕を用意しているのでしょうか。じつに、大人の私でも子どものようにワクワクしてきます。
最初は、「この抒情的な建築」―
村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』谷崎賞贈呈式での選考委員祝辞、一九八五年十月十六日・東京会館―となっています。この挨拶話しの前出しとして、
わたしが村上春樹さんに言った。
「君がヤクルトの負けた日に、神宮球場の外野席で、小説を書かうと思ひ立つたといふのは、いい話ね」
春樹さんが、微妙な表情で、わたしの思ひ違ひを正してくれた。
「勝った日ですよ」
という、この丸谷&村上、二人のそれぞれ一つずつの会話が「あいさつ」の前出し、すなわち歌の世界で言うところの「詞書き」のはじまりにあたります。そして、いよいよスピーチがはじまる瞬間を迎えました。そんな臨場感があたりを漂いだしてきています。
村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はエレベータの話からはじまります。そのエレベータは普通のものとは何から何まで違つてゐて、まづ非常に広い。オフィスとしても使へるくらゐで、ラクダを三頭と椰子の木を一本、入れることだつてできさうである。第二に新品の棺桶のやうに清潔である。第三におそろしく静かで何の音もしない。第四に、エレベータにつきものの装置がまつたくない。階数を示すボタンも、ドアの開閉のためのボタンも、非常停止装置も、定員や注意事項を書いた表示もありません。
で、それに乗つてゐる主人公はつぶやくのです。「どう考えてもこんなエレベータが消防署の許可を得られるわけはない。エレベータにはエレベータのきまりというものがあはずなのだ」と。
これと同じやうに、読者たちは、村上さんの新作を読んで、「小説には小説のきまりといふものがあるはずなのに」とつぶやくかもしれません。たしかに
この長編小説は現代日本小説の約束事にそむいてゐます。第一に、主人公はすなはち作者自身である……らしいといふ錯覚を与へない。村上さんが地下の国であんな大旅行をしたはずはないし、彼がいくつかの職業についたと言つても、計算士なんて変な商売で暮しを立ててゐたはずはない。まして彼の頭脳に人工の超知能が植ゑこまれてゐるなんて、とても思へ、ません。第二に、このことでもわかるやうに、これはSF仕立てであつて、明治末年以後、約八十年にわたつてつづいて来た、小説は生(なま)の現実に密着しなければならないといふ風習に逆らつてゐます。そして第三に、汚したり、読者に不快感を与へたりすることが文学的勘どころになるといふ、これも約八十年つづいた趣味を捨ててゐます。それから、作者あるいは作中人物の誠実さによつて感動させようといふ態度もありませんね。これはもともと非常にしやれたつくりの法螺(ほら)話ないし大がかりな冗談なのですから、当然のことであります。
さういふ訣別(けつべつ)と反逆を、村上さんはじつに淡々とおこなつてゐるのですが、その結果、出来あがつたものは、極めて優雅な憂愁に富む一世界で、しかしこの
抒情的な建築はまことに論理的に作りあげられてゐます。すくなくともわたしには、かなりの程度、納得がゆきました。そしてこの長編小説は、選考委員の一人である大江健三郎さんの言葉を借りると、「パステル・カラーで描いた二枚のセルロイドの絵をかさねる」やうな、甘美な様式のものなのに、仔細に調べると充分な苦さが重りのやうについてゐて、それが作品を安定させ、作品と文明とを結びつけてゐます。わたしは村上さんの力量に敬意を表さないわけにはゆきませんでした。言ふまでもなく、われわれの文学風土においてこのやうな長編小説を書くことは、大変な冒険であります。そして、この文学風土が記念する作家である
谷崎潤一郎には、極めて喜劇的な角度から男女の仲を考察する『痴人の愛』、前衛的な暗黒小説とも言ふべき『卍』などにあらはに示されてゐる、果敢な冒険家としての側面がたしかにありました。考へてみれば、谷崎潤一郎もまた、エレベータらしくないエレベータをたくさん作つたエレベータ職人であつたかもしれません。その意味でも、今年もまたいかにも谷崎賞にふさはしい受賞者を得たと喜んでゐます。これがスピィ−チの全文である。このお話のなかに登場する人物像は「スピィーチ」者である「わたし」こと
丸谷才一さんご自身、この祝辞の対象となっている村上春樹さん、そして、選考委員のお一人である大江健三郎さん、この賞の発祥者である故人谷崎潤一郎さんの四人であり、いずれも個性溢れる、見劣りせぬ作家陣たちであります。そのお一人お一人の作家活動と人間模様を紹介するのには時間があってもない状況になりかねません。村上春樹さんの受賞小説『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社刊)に描かれた機械道具「エレベータ」が、常識では考えようがない発想をもって紹介していること、これを具体的、かつ簡潔に素直に表出していること、それが果敢な冒険家として前衛的な谷崎文学作品へと見事に結実していくこと。これを評定することばが「抒情的な建築」であり、その裏づけとなる評言が大江健三郎さんの言葉「パステル・カラーで描いた二枚のセルロイドの絵をかさねる」筆致であったこと、そのことを換言して解りやすく言うと「甘美な様式のものなのに、充分な苦さが重りのやうについてゐる、それが作品を安定させ、作品と文明とを結びつけてゐます」という受賞認知者としてのものの見事な見解なのである。納得のいく祝辞構成をここに展開しているのです。
この上記、受賞の所以となる箇所を一層引き立っているのが、「この長編小説は現代日本小説の約束事にそむいてゐます」というこの一節であります。この場で聞いている
村上春樹さんも、他の聴取者もドキッとする。丸谷さんはこのおめでたい席の祝辞のなかで何を言い出すのだろうか?場内をヒヤヒヤとさせています。その聴衆の聞き入る耳、注がれる眼ざしを勢いに棹差す舟として、グイッと前に進み出る。こんな前衛的な“すてきなご挨拶”ができるのです。そして、前に一歩、踏み出した話しを収束する術が大江さんの言葉であり、賞の鑑たる谷崎潤一郎さんその人へ「エレベータらしくないエレベータをたくさん作つたエレベータ職人」という具合にオーバー・ラップしていて、一層その重層感をいつまでも、どこまでも保持しつづけているのです。さて、いかがなものでしたでしょうか?
今日のこの講義を受講されている皆さん方、お一人おひとりに、惠みのシャワーとなって降り注いでいただけたでしょうか。ご自分の「スピィーチ」の予備練習となるようにと、この
丸谷才一さんのご本の一部を転載させていただき、「話しことば“すてきな挨拶”の実践に向けて」という私の話しとして見ました。どうぞこのお話しをご自身の“すてきな挨拶”として有効にご活用してみてください。〔担当:萩原義雄〕《参考URL》
村上春樹の文章論 丸谷才一文章論&日本語論