時事会計No.15

会計改革と司法改革

:3点セットの改革と高い“志し”、フェアなインフラ構築をめざして

 

 03年1月10日 日経新聞(社説)

 

Key words: 会計改革、司法改革、新会計基準、新監査基準、公認会計士法の改正、日本版SEC、政治と会計、フェア、法の精神、会計の精神、大学改革

 

 

今年は、@会計基準の改革、A監査基準の改革、B公認会計士法の改革、という会計改革の3点セットでもって会計制度改革の節目となる。司法改革が一歩先んじたが、会計改革もそれに遅れじと進んでいる。しかし、重要なことは制度改革はむろんだが、最終的にはそれに関わる人の「志し」(責任感、使命感、誠実性)の高さであろう。これなくして、一連の制度改革も画竜点睛を欠くものとなろう。

「会計改革、キャッチアップ後の戦略を」と題する1月10日の社説は重要な点にふれている。日経の社説がこうした論説を取り上げること自体、会計・監査の社会的重要性が認知されていることにほかならない。社説では、「会計ビッグバンが一巡する今年はこれまでの経験を反省し、これからの戦略を考える大事な時期になる」と述べて、3つの課題を指摘している。紹介しておこう。

まず1つは、公開企業は「社会の公器」であるとの認識である。独立の監査人はその認識のもとで独立精神を発揮し、公正な判断がなされる必要がある。さらには、日本版SECの創設が必要である。要するに、資本市場の双方の番人(民間と政府)が必要であるということである。第2は、あらたな「監査委員会」の役割である。会計・監査と企業統治との結節点としての監査委員会の位置づけが重要になる。

第3は、会計基準の変更にともなう混乱の教訓についてである。この点はあとでも述べるが重要なところである。新たな金融商品会計、年金会計、減損会計、そのどれをとっても個別企業の経営にきわめて大きな影響を与える。それだけに個々の企業の対応の相違や政治の介入といった現象が生じる。

重要なことは、「新会計基準の導入の意味と是非を理詰めで議論し、事後的に慌てて対応するのではなく、移行プロセスの設計を含む周到な準備が必要である」(下線は引用者)という点である。会計は理詰めよりも時々のアドホックな政治・政策に従属しやすい性格をもつ。とりわけ今日の会計にはそれがみられる。そのことは、これまでの時事会計のいくつかのトピックスでも取り上げたとおりである。それだけにこの一節がきわめて重要なのである。

 

 

〈さらなる学習〉

さらに、会計改革にかかわって重要な点を以下、若干述べてみたい。 

@会計と政治−グローバル化とナショナリズム−:このところ日本の会計基準のあり方をめぐって政治・財界からきな臭い動きがでている。「会計基準を民間に任されるか」、という発言がそれを象徴している。その根っこに、グローバル化(会計)とナショナリズム(政治)との対立構図がある。地域の陳情を汲み上げたり、各種の圧力団体の要請を受けたりするのは政治の仕事であるかもしれないが、こと資本市場のインフラにかかわる問題に横やりをいれてくるのはどうか。それは「官」から「民」への構造改革に逆行するものではないか、旧態依然の「官」の発想ではないか。ここに、先の「新会計基準の導入の意味と是非を理詰めで議論」することの重要性がある。なお、以前に書いた★コラムも参照されたい。

A「転ばぬ先の杖」としての会計:この観点からすれば、わが国の「失われた10年」の1つの原因がこのこととにかかわる。事が起こったあとで改革がなされるが常であるように、会計が「転ばぬ先の杖」ではなかった点が、不良債権にあえぐ日本経済の1つの根っこにあるというわけだ。ただ、会計学の教科書に「転ばぬ先の杖」としての会計、というくだりはない。今日、会計・監査に求められているのがこれであるとすれば、これまでの会計教科書は改訂されねばならない。

伝統的な教科書が、(事後的な)資本・利益計算(投下資本の維持・回収・剰余の複式簿記による記録・計算)を中核にすえたものであるといえば、今日の時価会計が志向しているものは、その延長上にあるものというより、それとは基本的に異なっているようにみえる。図式的に、イ)今日の時価会計→ロ)経済的実態・財務リスクの事前開示志向→ハ)「転ばぬ先の杖」といった点からみれば、「転ばぬ先の杖」と今日の時価会計とがむすびつく。

ちなみに、先の社説では「会計は本来、持続不能な制度や過大なリスクをチェックする転ばぬ先の杖(つえ)である」と述べている。司法の世界とは違って、これまで会計は国民一般にとって必ずしも大きな関心事にはなってこなかった。それが国家的関心事にもなり、1つの市民権を得るほど社会的重要性が認知されてきた今日、あらためて「会計とは何か」、「会計は何のためにあるか」を考えさせられる。会計の教科書も、たんに(事後的な)会計的資本・利益計算の計算ルール学ではおさまらなくなってきているのかもしれない。

B司法改革と会計改革−フェアなインフラ構築−:司法改革も会計改革も、一言でいえば、フェアなインフラ構築という国家的仕事にかかわっている。この点で、雑誌『法学セミナー』03年3月号(日本評論社)の「連続対談 第4回「『フェア』なフィールド整備なしに日本の再生はない」は重要な点を指摘しているように思える。

たとえば不良債権問題を取り上げれば、対談者の木村剛は(「竹中プロジェクト」の中心メンバーであった)は、「不良債権問題に関して、正論を唱えるべき法学者や会計学者が何も発言してこなかったのはあまりにも切ない」(62ページ)と述懐している。この点は、日経記者(現在チューリッヒ支局長)の磯山友幸が「日本経済の歯車が狂った根本には、『会計』のウソがあった」(『国際会計基準戦争』序章、日経BP社、2002年)と述べていることと軌を一にしている。後述することともかかわるが、この点を、「あまりにも切ない」と落胆されてしまった学者ならびに学界はどう受け止めるか。

それは行政がやること、理論と制度(実務)は違うから…。ドロをかぶらない仲間うちだけの学界人が言いそうな抗弁である。静かな研究室で美しい論文を書く「学者」たちからでてきそうな抗弁である。ちなみに、筆者はこと会計学に関して「学者」という言葉はなじまず、またきらいであるので、自分が会計学者とは少なくとも自分からは言わないし、まして大学院生やOBを「弟子」などととても言えない。

さて、重要な点は次の指摘である。すなわち、「法律も会計も同じかもしれませんが、私は、多くの人があまりにも技術論に走りすぎているのではないかと思うのです。…技術論が先行しているという印象で、倫理観の欠如を感じるときがあります。テクニックばかりでエシックス(ethics=倫理)がないということです。…本来自分たちが果たすべきことは何なのか、本当のクライアントはどこにいるのか、自分の仕事の公共性はどうあるべきか、という部分が完全に欠落しているのです」(『法学セミナー』62ページ)、ここが重要である。

C法の精神、会計の精神:技術論に走りすぎているという点は、例えば現にアメリカのFASBが会計基準のあり方を真剣に考え直しはじめたこととを想起させるが(“ルールベース”から“プリンシプルベース”へ)、重要なことは「『なぜ「法」があるのか』という法の精神、『なぜ「会計」があるのか』という会計の精神が忘れ去られた技術論は、社会に害毒を垂れ流すだけになるのではないか」(同62ページ)という点である。

さらに重要なことは、とりわけ教育にかかわる者にとって重要なことは、「法の精神がない者が法律を教えても、会計の精神がない者が会計の術を教えても、それは決して世の中をよくしないと思うのです」という点である。会計技術の学習(会計術)も必要だが、もっと大切なのはその拠って立つ基礎、たとえば今日の資本主義経済とか、今日の株式会社といった動態的基礎を学習することである。その点では、つまりその上に立った会計も法律も同じである。何が今日の会計や法を制度化たらしめているのか、その理解なくして会計や法律を本当に理解することにはつながらない。

筆者が尊敬するカーネギーメロン大学の井尻教授は、ある論文のなかで次のように述べておられる。すなわち、「…、むしろ『理解なき説明・予測・作動』には大いに危険性がともなうものである。それは理解に根ざした判断にもとづく説明・予測・作動には当該事象よりもっと広い事象から生まれる原理を把握することからくる安定性と自信をともなうからである。理解のともなわないそれは微視的で枝葉にとらわれたものになりがちで、成功することがあっても一時的なものに終わりがちである」と。何が枝葉で何が幹か、何が一時的な成功だけに終わらないか、それはすべてここでいうところの「理解なき説明・予測・作動」の危険性ということにかかわっている。

肝要なことは、問題がまず教育する側にあることを認識することである。教育する側にこそそうした学習姿勢がないと、まさに「会計の精神が忘れ去られた技術論は、社会に害悪を垂れ流すだけになるのではないか」(木村)、「『理解なき説明・予測・作動』には大いに危険性がともなうものである」(井尻)ということになってしまう。会計を教育する側にとって、「失われた10年に会計のウソがあった」はけっして一新聞記者の独り言でも戯言でもないのである。

構造改革は政治や経済だけではなく、実はもっと大きく、そしてより基本的には、教育にこそあると認識すべきである。その意味で、真の構造改革は教育改革が基礎になければならないと心得るべきである。

D銀行改革と大学改革:2月13日の日経(大機小機)に「銀行も大学も国民から愛されていない」と書かれている。そのとおりである。銀行は不良債権というはっきりしたバブルのツケがあるので、その処理いかんで銀行も変わるかもしれない。では、大学はどうか。大学のバブルとは、不良債権とは何か。そもそも、日本にこれだけの数の大学が必要なのか。教員(学者)の数もこんなに必要か。リストラで厳しい世の中、大学だけは別なのか。

日大紛争、東大紛争など大学紛争が吹き荒れた70年代から30年以上がたった。振り返ってみて、あの紛争は何だったのか。大学は変わったのか。あれだけの紛争にもかかわらず、実は何も変わらなかったのである。では国立大学の法人化法案で、大学は変わるのだろうか。形態だけが変わっても、旧態依然とした序列の枠組みはそう簡単に崩れそうもない。サッチャー流の予算の重点配分は、研究・教育の市場化をもたらす。あらゆるものが商品化する今日、大学も市場メカニズムにのって商品化する。

先にも述べたが、ここに教える側の問題、主要構成員である教員の問題が欠落している。設置形態を変え(上からの改革)、大学の経営戦略・ビジョンを明示することも必要であろうが、教える側の基本問題の認識を欠いては、その制度改革は画竜点睛を欠くものとなる。長年現場にいて危惧するのは、実はこの(××学者とよばれる)人たちの問題である。

20数年の現場経験ではあるが、大学紛争を経験したものなら大学改革が金融改革以上に困難な仕事であることを認識するだろう。なぜなら、すでに述べたように、真の大学改革は大学人の改革(下からの改革)を欠いては画竜点睛を欠くからである。もっとも、それができないことを知っているからこそ、上からの改革(「お上」の命令)の断行がなされているのだが。

(以上、2003年2月)

 

★コラム 会計の世界標準化:ローカルスタンダードとのコンフリクト

世にグローバルスタンダードの時代である。会計もその例外ではない。まるで錦の御旗のように、グローバルのオンパレードである。財務がグローバル化すれば、財務会計もグローバル化する。それは自然ななりゆきであろう。しかし、その道はそれほど平坦で容易なものではない。各国には各国のかかえた経済事情があり、利害がからむからである。教科書のように、なんでもかんでもグローバルスタンダードとはいかないのである。

例えば金融商品に関する多国間共同作業会議(JWG)はいわゆる持ち合い株式を含む全面時価の方向を打ち出しているが、これなど株式市場が大幅に下落し低迷しているわが国では、銀行はじめ金融機関や事業会社の猛烈な反対が予想される。また、固定資産の「減損会計」は2003年3月期に導入される見通しであるが、ここにきて与党や経済産業省などが警戒感を強めている。そこにはただでさえ再建に必死な建設業や不動産業への配慮が垣間見える。激変緩和措置を要請するなど、問題先送りの方向がでてきているわけだ。ここに英米発のグローバルスタンダードを先送りすることをよしとしない側とのコンフリクトが生じる。

最近、世界銀行などが参加している「会計基盤強化のための国際フォーラム」(IFAD)は世界50カ国を対象に国内基準と国際基準との食い違いに関する報告書をまとめている。それによればわが国では減損会計など26項目が指摘されている。こうした食い違い項目を全面的に解消するというのがグローバルスタンダードの道であろうが、それには先の例からも分かるように、それほど平坦なものではない。人類が言語の世界標準をもっていないように、企業言語ともいえる会計の世界標準は、数字をあつかうとはいえ(その会計数値を作り出すルールが問題)、そんなに容易なものではない。いくつのもせめぎ合いの果てに収斂していくものであろう。

2001年4月)