時価会計と資本利益計算の変容

社会科学としての時価会計

Value-Based Accounting and the Transformation of Capital/Income Calculation

: A Social Science of Contemporary Value-Based Accounting

 

 石川純治  Junji Ishikawa

 

 

T 計算における変容問題

1 時価会計の系譜

2 既存枠か別枠か

3 利益の異質性問題

4 「拡張の論理」と「区分の論理」

  金融経済学的見地と今日の時価会計問題

6 現在価値と資産・負債の直接的再測定

U 開示における変容問題

1 計算と公開

2 開示の側面での変容

3 開示規制と配当規制

4 会計規制の国際化         

V 社会科学としての時価会計               

1 理論のあり方            

2 実証研究と会計基準

3 個別資本説と会計制度論

4 社会科学としての時価会計

補論 経済学の“選択”と会計パースペクティブ

 

キーワード:金融商品会計、時価会計、公正価値会計、現在価値会計、国際会計、会計規制、計算と公開

 

T 計算における変容問題

1 時価会計の系譜

世に「時価会計」といわれるものを時代的に振り返ってみると、いくつかの系譜があるように思われる[1]。すなわち、その第1は、1970年代に資本維持概念を基軸に活発な論争が展開された時価会計、すなわち「個別価格変動会計」である。そこでは実物の費用性資産がその対象であり、その時価変動の特徴は個々の資産価格の持続的騰貴(一方的上昇)であった。第2は、1980年代中頃から90年代をへて今日の最終段階にいたっている「金融商品会計」(公正価値会計)である。そこでは費用性資産ではなく金融資産・負債がその対象となり、その時価も文字通り相場価格の変動(上下変動)であった[2]。第3は、今日わが国で議論され始めるようになった「減損会計」であるが、そこでの時価変動は収益性の低下にともなう個別資産価値の著しい下落(一方的下降)であることがその特徴である。

ここで、かつての個別価格変動会計を実物資産に係わるインフレ経済下の会計問題(フローインフレ会計)、今日の金融商品会計を証券価格、金利などの相場変動リスクにさらされた金融・証券経済下の会計問題(相場変動リスク会計)といえば、わが国での今日の減損会計は同じく実物資産でもデフレ経済下の会計問題(フローデフレ会計および土地や株式などの資産デフレ会計)ということができる[3]。そして、いずれの会計問題もたんに財務透明性の問題にとどまらず、さらに利益計算としての会計問題が問われるのである。こうして同じく時価変動の会計問題といっても、その変動の態様もその経済的基礎もそれぞれ異なるのである。

重要なことは、それぞれの時代的背景(経済的・社会的条件)のもとで、それぞれ性質の異なった「時価会計」が登場してきたということである。さらに、これから新たな時価会計として登場してくると思われるのが、第4の系譜ともいえる無形資産(知的資産)の時価会計である(知的資産会計あるいはブランド価値会計)。先の金融資産も固定資産も有形資産であるが、ノウハウやブランド、特許などの無形資産を決算期末ごとに時価(現在価値)評価する方向である。文字どおり将来キャッシュフローの生成能力としての資産(“過去資産”ではなく“未来資産”)がその割引現在価値で評価されるわけである[4]。そこでのキーワードはのれん(それも自己創設のれんを含む)の時価評価と企業価値であり、その基礎にいわゆる産業構造の知識産業への変化をみることができる。こうした知的財産の企業価値にとっての重要性の認識は、伝統的な動態論的思考とは本来的に性質を異にする「株主価値会計」(企業価値会計)とでもいえる会計思考に結びついている[5]

さらに、この会計思考という点で以上の4つの「時価会計」を比較すれば、「個別価格変動会計」と「減損会計」(いずれも実物資産の会計)はこの伝統的な動態論的思考−会計的配分(フロー)思考−に根ざしているのに対し、「金融商品会計」と「知的資産会計」は(いずれも広い意味でのなんらかの権利資産の会計)それとは性質を異にする株主価値会計(企業価値会計)の思考−価値評価(ストック)思考−に根ざしているといえる。その意味で、同じく「時価会計」といっても、基本的には2つの異なる会計思考の上にたつ「時価会計」としてそれぞれ存在しているといえる[6](以上、図表1参照)。  

 

図表1 4つの「時価会計」の特徴

 

いずれにしても、世に「時価会計」とよばれる会計を理解するには会計的認識・測定および表示の議論にとどまらず、その基礎にある経済をみなくてはならないわけである。以下でとりあげるのは、このうちの第2の金融商品の時価会計である。

以下では、まずそこでの新たな会計ルールは既存の会計枠組みにてらしたときその枠内に包摂できるものなのか、できるならその論拠はどこにあるのか、あるいは既存の枠内におさまらないとしたらその論拠はどこにあるのか、そういった基本的な問題(「計算」の基本問題)をとりあげて「会計の変容」問題を考えてみたい。

 

2 既存枠か別枠か−「主観のれん説」の意義と問題点−

まず、既存の枠内に包摂しうるという立場にたつ見解、それは制度上も理論上も非常に有力な見解となってきているが、それをここで取り上げておかねばならないかと思う。それは、筆者が「東大スクール」と呼んだひとたちの、これも筆者の便宜上の命名であるが「主観のれん説」とよぶ見解である。その骨子をまず紹介しておきたい[7]。  

先に開催された日本会計研究学会での特別委員会報告『会計基準の動向と基礎概念の研究』でもコメントしたことであるが、主観のれん説においては、端的にいえば、要するに有価証券の保有利得はある観点から、ここではそれについてふれるだけの余裕はないが[8]、実現利益であり、「実現・配分・対応」といった既存の枠内に十分包摂されるものだという見解である。その点で、金融商品に関する新しい会計ルールは利益計算の既存の枠内にあり、したがってけっして変容しているわけではない、ということになるかと思う。

おそらくその背後にある考えとしては、新しい会計ルールも含めて、できるかぎり多くの会計ルールを既存の概念でもって整合的に説明できるものにしたいという考えがあるように思われる。その考えそれ自体は同意できるものであり、一見多様・多彩な展開を見せている今日の会計ルールが既存の概念でもって整合的に説明されうるのであれば、それにこしたことはないと思う。ただ、そう言えるにはいくつかの問題点を指摘しておかねばならない。利益計算という場での「変容問題」を考える1つの素材として、ここでは以下4つの論点を取り上げて議論したいと思う。

まず第1は、事業投資の実現損益、すなわち「原価−実現T」による売却損益も、金融商品の実現損益、すなわち「時価−実現U」による時価変動損益ないし保有利得損失も、いずれも「実現利益=キャッシュフローの配分計算」というレベルで異なるものではなく、両者はただ配分のタイミング(利益認識のタイミング)を異にするだけであるという点に係わる問題点である。すなわち、そこでの「配分」はキャッシュフローの配分であっても、費用の配分がどう係わっているか、とりわけ金融商品に関してどうなのか、必ずしも明らかでないように思える。事業投資による資産は費用化が予定されている費用性資産であるが、金融商品はそのような性格をもたない以上、時価変動損益が(広い意味で)キャッシュ・インフローであってもキャッシュ・アウトフローとの係わりで費用配分および対応はどう説明されうるのか、依然として問題なのである[9]

これに関連して、昨年(2000年)、企業会計審議会が公表した「固定資産の会計処理に関する論点の整理」の「T経緯及び基本的な考え方」においては、次のような説明がなされているが、それは見落としてはならないところかと思われる。すなわち、「金融資産−特に自由に換金でき、換金が事業に制約されないもの−はそれ自体貨幣性資産であり、その価値の変動は換金を待つまでもなく実現利益を構成するキャッシュ・フローの要素とみることができる」(傍点は引用者)との見解がそれである。この見解にみられるように、金融資産を貨幣性資産と捉えれば、そこに原価配分ないし費用配分など「費用側」の議論はでてきようがないが、こんどはなぜ貨幣性資産に「実現」が適用されるのか、少なくともこれまでの伝統的な考え方からすれば検討の余地があるように思える[10]。そもそも、金融商品を伝統的な貨幣資産・非貨幣資産分類での貨幣資産範疇のなかに入れてしまうこと自体がいいのかどうか、十分議論される必要があるように思われる[11]。いずれにしても、実現を伝統的に原価(およびその配分)との対で考えるとき、金融商品にかんして「実現」というさいそれは原価側とは切り離された実現側がキャッシュフローの配分というレベルで論じられているようにみえるわけである[12]

ついでにもうひとついえば、現物をとおさず差金決済される先物取引のような金融派生商品(デリバティブ)にいたってはネット(正味現金)のみである。ネット(差金)だけであるので、利得(先物利益)は収入のみ、損失(先物損失)は支出のみということにもなりそうだが、そもそもそこにはいかなる利益計算の枠組みが妥当するのか、そこにも名目資本維持の利益計算が行われているといえるのかどうか。もしそうだとすると、そこではもはや当初「支出」が存在しないわけだが、そこにいかなる名目資本が想定されているのか、そのような基本問題が指摘されるわけである[13]

 

3 利益の異質性問題

第2に、今日の金融商品の時価会計からでてくる利益、すなわち保有利得損失が、先にみたように「実現利益」というかどうかは別にして、これまでの実物商品での実現利益と同質なのかどうか、ということも「変容」問題を考えるさい1つの論点になろうかと思われる。

周知のとおり、一般に利益決定と資本維持とは一対の関係にあり、そのことは分配可能利益計算に限らず業績利益計算についてもいえるはずである。ただ、そこでの資本維持は実物資産ではないので、「個別価格変動会計」で議論された資本維持とは本来的に性質の異なるものになるはずである。ところで、先にみたように、2つの実現利益、すなわち事業投資に係わる販売損益と、金融投資に係わる時価変動損益がキャッシュフローの配分計算という観点からは利益認識のタイミングの違いにすぎないという捉え方には、依然として「名目資本維持」が暗に想定されているように思われる。しかし、もし金融商品に同じ貨幣資本維持であっても別種の貨幣資本維持が妥当するならば、単なるタイミングの相違以上の議論、すなわち異質な資本維持から出てくる利益の質の検討が必要になるように思われる。

実際、IASCは金融商品に関する資本維持概念として「現在の市場収益率資本維持」について言及しているが[14]、こうした資本維持概念からでてくる利益の性質はこれまでの実現利益と同質なものかどうか、筆者には疑問に思える。とりわけ、証券価格、金利、あるいは為替などの相場変動に起因する利得・損失が純利益のなかに入ってくると、それを「実現」利益と呼ぼうと呼ぼうまいと、その中身はこれまでの実現利益と同質なものかどうか、非常に疑問に思うわけである。例えば、JWGが目指している全面時価アプローチにおいては、固定金利の借入金のような負債にも時価が適用されると、そこからでてくるオパチュニティとしての利益(機会利得損失)が期間損益計算のなかに入ってくるわけである。そうした利益概念はこれまでの実現利益と同質とはとても思えない。それゆえ、これまで未実現利益として否定されてきたわけである。そうした損益が業績としての経営者の責任になってくると、少なくともこれまでの利益概念からみて、それはもう変容あるいは変質しているといえるのではないかと思う。

第3は、会計的利益と経済的利益に係わる問題である。すなわち、こうした資本維持から出てくる利益はある種の経済的利益概念とも係わっているように思われるが[15]、そうなると経済的利益が純利益計算のなかに入ってくることになる。筆者はそれを「会計的利益と経済的利益の同時的併存問題」と呼んでいる。さらにいえば、時価変動損益は財・用役の流れとしてのフローではありえないと思えるが、それがいかなる意味で「フロー」なのか。単なるストックの評価差額としての(純利益と区別される)「その他の包括利益」だけが異質なのかどうか。いずれも、認識の「タイミング」の違いだけに帰着し得ない、利益の質的な問題の検討が必要であるように思える[16]

第4は、有価証券の保有時の評価損益と売却時の売却損益とは区別されるのかどうかという基本問題、すなわち「評価損益と売却損益との区分・非区分問題」と呼んでいる問題も検討されるべき論点である[17]。その問題は、キャピタルゲイン(擬制資本からの成果)は製品・商品の販売益(現実資本からの成果)とはその経済学上の性格をまったく異にするということに密接に係わっているように思われるが、ここではキャピタルゲインしかもその保有損益は実物商品の実現損益の延長上では捉えられないということだけを指摘しておきたいと思う。

 いずれにしても、以上のような問題点を考えると、どうしても実物商品に関する実現概念の拡張あるいはその延長上では説明できないように筆者には思えてくるわけである。少なくとも、金融商品の時価会計が「実現」・「配分」・「対応」といった伝統的な概念と整合しうるだけ首尾一貫したものなのかどうかは、疑問に思えるわけである。となると、いかなる別枠での論議が可能で、それは既存枠とどのような関係として全体を構成することになるのか、このことが新たに問われる。

 

4 「拡張の論理」と「区分の論理」

 まず、基本的な考え方を述べておくと、先の金融商品を貨幣性資産の範疇と捉えたり、時価評価損益を現行の実現基準の延長上(その典型は実現可能基準)で捉えたりする見解は、既存の枠の「拡張の論理」に根ざしているように思える。これに対し、これから述べる議論では、実物経済を基礎にする実物資産と、金融・証券経済を基礎にする金融資産・負債との「区分の論理」に基づいている[18]

それを例えば財務リスクという概念で区分するならば、前者においては売れるかどうかのリスク、あるいは売れた後の回収のリスクはあっても、いわゆる価格変動リスクにさらされているわけではない。これに対し、後者では逆にいつでも市場で売買することは可能であるかわりに、日々、常に価格変動リスクにさらされているわけである。これがリスク負担の視点からみた、実物商品と本来的に区分される金融商品に固有の特徴である。この価格変動リスク(およびその反対であるリターン)に責任を負う、というのが金融商品の全面時価アプローチの背後にある基本的な考え方であろうと思われる。したがって、そこには売却という実現に係わる要件などまったく必要としないわけである。

問題はそのことがこれまでの伝統的な業績指標である利益概念と整合的であるのかどうかということであるが、すでに述べたように、筆者にはそうした利益概念が伝統的なそれに包摂されるとは思われない。業績指標としての利益概念からすれば、「何が業績か」ということに関して、ここに今日的な変容をみることができるように思う。さらにいえば、その変容のさらなる基礎や背後を考察することが、後に議論される「社会科学としての時価会計」というテーマにむすびつくことになる。

なお、ここで少しばかり視点を変えて、「相場変動で利益が決まるか」という問いかけをしてみると、先の主観のれん説の立場は「決まる」という答えであり、しかもそれが先にも述べたように、「ありうべき利益計算」として決まるという答えになるわけである[19]。「ありうべき」という内在的論理から決まるという点が重要なところである。具体的にいえば、問題はキャピタルゲインの保有利得が、通常の商品の値上がり益(これも保有利得ではあるが)とは異なって、なぜ会計認識されるかその根拠であるが、それが先の「主観のれん説」では金融投資においては主観のれんがないことから、キャッシュフローを待たずとも時価の変動そのものがキャッシュフローの実現と同じである、という理屈付けであったわけである。

ただ、もしそうであるなら、これまで未実現利益として排除されてきた論理は何だったのか、それは間違っていたのか、もし間違っていたのならなぜこれまで会計基準は是正されてこなかったのか、より会計の内在的な問題として議論する必要があるように思える。筆者は、「相場変動で利益が決まるか」という問い−これは会計学的にも経済学的にも難問と思われるが−の答えが仮に「イエス」であったとしも、他方の見方として、そこにはむしろ外生的な論理、例えば「有用性」の見地とか「財務的」な見地が作用している可能性があるようにも思われる。後でも述べるが、そこには言ってみれば「財務」の会計計算への算入あるいは侵入という見方も可能かと思う。財務リスクの実態とか財務リスクの管理といったいわば「財務」的見地が損益計算という会計計算のなかに侵入してきているわけである[20]。そのことが、収支すなわちキャッシュフローとは切り離されたものでも損益計算になかに入ってくるわけである。この財務の計算への算入ないし侵入といったことになると、つまりそこから出てくる利益が会計に内在的なものでないかぎりは、そこから出てくる利益概念はこれまでの利益概念とはけっして同質なものとはいえないように思うわけである。

いずれにしても、損益計算とは何か,貸借対照表とは何か、両者はいかなる関係にあるか、などといった会計固有の内在的論理からでてきうるものか、それともそれとは別の外生的な要請からでてくるものか、ここに大きな見解の分かれ目があり、それいかんで「変容問題」の見方およびその答えも異なってくるわけである。

 

金融経済学的見地と今日の時価会計問題

 さて、ここで視点を変えて、今日の金融(派生)商品の時価評価問題を金融経済学的見地からみると、それが擬制資本の一層の発展ないし肥大化と密接にむすびついているということが指摘される。例えば川合一郎は次のように述べている。すなわち、「ただ擬制資本の範囲は固定したものではない。量的に増大するのはもちろんであるが、資本蓄積の発展とともに質的にも拡大してくる。〈のれん〉に代表される無体財産権は技術革新(特許権・技術導入)や会社の合併に伴ってふえてくるし、他方では信用制度の発展による遊休資本の形成、所得請求権移動の障害を除去・軽減するする法技術や制度たとえば有価証券化(最近では貸付信託の創始)、需給適合の障害除去・軽減(第二市場の開設)、つなぎ金融の容易化によって、擬制資本は量的・質的に発展する」(大阪市立大学経済研究所[1965]161頁、川合担当、傍点は引用者)と。これは30年以上も前のものではあるが、その内容は今日にも十分通用するように思われる。

すなわち、今日の金融商品やデリバティブも、ここでいう擬制資本の一層の発展に伴う「法技術や制度」の一環として開発された特殊な商品にほかならないし、また金融商品の時価会計はじめ今日の制度会計そのものも、ここでいう「制度」の一環として捉えることができる。まさに、こうした擬制資本の量的・質的発展に伴う会計問題として現象化しているのが、言い換えれば、本来的に現実資本の会計枠組みであるところの伝統的な会計の枠組みが、そうした擬制資本の一層の発展・拡大に対応できないかたちで現象化しているのが、今日の金融(派生)商品に係わる会計問題にほかならない。

そもそも今日の金融商品を中心にした時価会計問題が何処から来ているかといえば、それは例えば減価償却に代表される「固定資産会計」のような生産的資本の内部からではなく、その外、すなわち遊休貨幣資本を生産的資本に転化するということ、つまり「資本信用」から来ている。そして重要なことは、その資本信用が成立するには「ただより多くの貨幣を引き出すために貨幣を流通に投ずる」という流通の制度が存在しなくてはならない。まさに、(流通市場での)株式有価証券に代表される金融商品は、このより多くの貨幣を引き出すために貨幣を流通に投ずること(その典型は投機であるが)を契機にした商品にほかならないわけである。むろん、それが生産的資本(産業資本)の機能をよりいっそう拡張することに係わっていることはいうまでもない。

したがって、今日の会計問題の特質、とりわけその経済学的見地からの特質を指摘すれば、それが生産的資本に直接係わる問題としてではなく、擬制資本の一層の発展・拡大に係わる問題として、また信用の社会的発展という視点からはそれを支える資本信用の一層の発展に係わる問題として登場してきている点にある[21]。このことは何も金融商品会計に限らず、後でふれることになるが、結合会計での(買入れのれん)新たな会計処理などにもみられる今日的会計問題の大きな特徴点である。

 

6 現在価値と資産・負債の直接的再測定−配分から評価へ−

計算における変容問題の最後に、貨幣の時間価値(利子)が割引現在価値というかたちで会計計算のなかに浸透してきていること、とりわけそれが資産・負債の「直接的再測定」として用いられていることについてふれておきたい。それは現在価値計算が伝統的な「配分」の枠内から、さらに配分をとおさない(当初認識から切り離された)直接的な「評価」として会計計算のなかに浸透しているということであり、それが今日的時価会計にみられるように、今日の会計計算の1つの変容を特徴づけているといえる。

例えばリース会計(ファイナンス・リース)ではリース支払総額を元本−これが固定資産評価額とその期間配分としての減価償却費となる−と利息に分離するさい現在価値計算が用いられる。すなわち、そこでのポイントは支払リース料総額のうち利息相当額がいくらであるかの計算であるが、そのためにリース支払総額の現在価値が当該リース資産の見積現金購入価額に等しくなる利率(割引率)が求められ、この利率が利息相当額の算定に用いられる[22]。これがいわゆる「利息法」とよばれる方法である。ここでは、この利息法についてこれ以上たち入らないが[23]、計算上重要なのはいったん複利計算の逆算による現在価値としての元本(すなわちリース固定資産価額)と、その元本から今度は時系列順に複利計算による利息計算がなされること、この時間軸の逆順と正順の関係が重要である。そして、この時間の逆順による現在価値計算は計算上は擬制資本価値(利子を生む想定元本:元本化、利子分の抜き取り)の計算を行っているに等しいし、そこから今度は時間の正順による利息計算することは貸付資本(元本)の複利による利息計算がなされていることに等しい。これがあとで述べる(利息総額の)「配分」となる。この元本化(時の逆順)と利息配分(時の正順)との対関係が、あとでみる満期保有目的債券のケースと「同形」なのである(割引発行額−額面額プラス契約利息額の契約利子率ではなく市場利回りによる割引現在価値(元本)−と利息配分額(契約利息プラス金利調整としての割引額)との対関係)。さらに重要なのは、リース会計には生産過程に入っていくもの(減価償却資産=元本)とその過程の外に位置する利息計算という経済学的に性格を異にするものが交錯している−経済学的観点からいえば後に議論する資本の「生産関係」と「所有関係」との交錯−という点である。それゆえに、リース支払総額から固定資産額(元本)と利息額とを分離する必要があるわけである。

さらに、もう1つの例として金融商品、それも満期保有目的債券での「償却原価法」をとりあげておこう。周知のとおり、ここでも「利息法」が用いられ、受取が確定している各期の契約利息と取得時の金利調整差額(額面額と取得価額との差額)との合計額(したがってこの合計が実質的な利息総額となる)が、「実効利子率」でもって各期に配分される。ここで実効利子率とは、各期に受け取る契約利息と償還日に受け取る額面額の合計額(これが確定している将来キャッシュ・インフロー)の現在価値が(額面以下の)購入価額に等しくなる割引率のことである。この金利調整差額を含めた実質的な利子率を用いて時間軸にそって計算される各期の利息配分額の合計は、契約利息と金利調整差額との合計に等しくなる。いずれにしても、その利息配分額と(額面に対する契約利率による)契約利息との差額が、毎期その債券の評価額(貸借対照表価額)に加算(増価、アキュムレート)されるわけである[24]。ちなみに、社債の発行側についていえば、その金利調整差額(社債発行差金)は、貸方の社債金額を額面で計上するかぎり、借方側に社債発行差金として仕訳される[25]。しかし、それは前払利息の性格を有するので、そこでもその差金償却は先の購入側(投資側)との一貫性(表裏の関係)からすれば、本来、利息法によって償却(支払利息の配分)すべきものと考えられる。しかし、それが利息法ではなく「定額法」(均等償却)によって処理されるのは商法での繰延資産の均等償却との関係からであろうと思われる[26]

以上、リース会計と満期保有目的債券での現在価値計算および利息法をみてきたが、いずれも確定したキャッシュフロー(リースの場合はリース料総額、満期保有目的債券の場合は契約利息と償還日に受け取る額面額)の配分、とりわけそこでの利息相当額の配分計算が利息法によって計算される点で共通する。少なくともいえることは、いずれも既定のキャッシュフローの配分という点で両者は時価会計ではなく、そこでの割引現在価値の計算は伝統的な配分計算の枠内にある。ただ、その配分計算を費用配分という点からすれば、リース会計の場合は元本と利息がそれぞれ減価償却、支払利息としての費用配分となっているが、満期保有目的債券の場合はその増価部分は収益(有価証券利息)の配分となっているという点で異なる。その意味では、前者は原価主義会計の枠内(原価−配分/対応−実現)といえるが、後者はそれが実物商品とは経済的に区別される金融商品であることも含めてどのような位置として存在するか、なお検討の余地があるといえる(図表2参照)[27]

 

図表2 「原価」・「増価」・「時価」−増価の位置づけ−

 

そこで、こんどは時価会計での割引現在価値についてみておこう。とりわけ先の2つのケースと比較してその特徴は何であるかをみることで、3つのケースの相対比較をおこなってみたい。先の満期保有目的債券も金融商品であるが、同じく金融商品でも売買目的有価証券やデリバティブの時価評価では、市場価格か市場価格がない場合に「合理的に算定された価額」として割引現在価値が用いられる[28]。ただ、当該資産の現在価値は完全・完備市場のもとでは競争をとおして市場価格に収斂するはずであるから、結局そこでは現在価値が時価として用いられるといえる。問題は、そこでの現在価値の用いられ方、つまり先の2つのケースと比較して、何がその特質であるかである。先に、2つのケースが時価会計ではないこと、そしてその理由が確定したキャッシュフローの配分計算であることを指摘した。これに対し、例えば売買目的有価証券(およびデリバティブ)や退職給付債務(年金資産の時価評価も含めて)での時価ないし割引現在価値の用いられ方は、将来キャッシュフローの金額が確定しているわけではなく、したがってそこでの資産ないし負債の測定は当初認識時の情報から分離された、特定時点の新たな情報や仮定に基づく再測定であり、直接的測定であるという点で先の2つのケースと異なる。この時点時点での新たな情報や仮定に基づく直接的再測定というのが、時価会計の測定における特質である[29]

このことから、先の2つのケースにみられた「既定のキャッシュフローの配分計算→資産評価」(配分→評価)という会計操作はでてこず、「時点時点の資産評価→その評価差額」(評価→配分)という操作になる。そして、後者の「評価→配分」での「配分」といっても、前者の「配分→評価」での「配分」とは性格を異にし、それはキャッシュフローが確定したあとからみての結果的配分でしかない。同じく価値変動といっても、先の増価による購入債券の価値変動が、確定している利息額(前受利息)の配分(利息法)による一定額の増価変動であるのに対し、購入株式の価値変動は時点時点での新たな情報を織り込んだ、文字どおりの時価の変動である。そこでの時価ないし割引現在価値は、先の配分計算とはまったく異なり、直接的再測定としてのそれであり、再測定の基礎を異にしている[30]。こうした時価会計としての現在割引価値計算の資産・負債評価(直接的価値評価)へのいっそうの浸透(配分から評価へ)−それは経済学的には擬制資本価値の計算を行っていることにほかならないが(擬制資本価値の会計)−、これが今日的会計の1つの特徴であり、ここに計算における変容をみることができる(以上、図表3参照)。

 

図表3 会計上の割引現在価値計算−配分と評価−

 

 

U 開示における変容問題

1 計算と公開−その係わり方−

さて、今回の統一論題の1つの論点がいわゆる「計算と報告ないし公開」との係わりであるが、それを金融商品の時価会計問題という具体的問題(つまり1つのケース、素材)をとおして考えてみたい。

いみじくも、統一論題座長の津守教授は、本学会第9回大会(京都大学)で次のような大変興味深い見解を述べられているので、ここに引用したい。すなわち、「そもそも『取得原価主義』の基本的論理の枠内で『オフバランス問題』など多くの新しい会計問題に対応することは本来不可能であろう。しかし、現行制度上の『取得原価主義』は、すでに自らその論理枠を破壊している。…この場合、『取得原価主義』の論理枠の破壊が計算の論理の枠内ではなく、公開の論理の利用によっておこなわれていることにとりわけ注意することが必要である。かさねていえば、それは、計算あるいは測定結果の公開の次元の問題ではなく、計算・測定構造への『公開原理』の侵入という全く別個の次元の問題である」(津守[1995]33頁、傍点は引用者)と。ここに、「計算の論理」と「公開の論理」との係わりに関する1つの見解が示されていると思う。ここでは、以下、2つの点についてだけ述べてみたい。

まず第1は、今日の時価会計問題が直接的には「計算」の問題としてではなく、「公開」の問題として捉えられている点である。より正確には、公開原理の計算・測定構造への侵入と捉えられている点である[31]。確かに、同じ時価評価問題でもかつての「個別価格変動会計」が、ここでいうところの「公開」よりもむしろ「計算」、端的には資本維持概念を中軸にした資本利益計算の問題として論じられたことと対比すれば、その点は十分理解される。ちなみに、そこでは今日のような「公開」の計算への侵入はみられないが、他方で、先にも少し述べたように、ここでも個別資本(個別企業)における「財務」の計算への侵入という点が指摘できる[32]。いずれにせよ、いくつかの拙稿でも述べたように[33]、今日の時価会計問題はまずは投資家にとって見えない経済的実態やリスクの開示会計として登場してきたということは事実であり、計算の問題はいわばそれに付随あるいはそれに伴うかたちででてきている、という側面があることも否定しがたい事実のように思われる。「公開の計算への侵入」というのは、もっと深い意味があるようにも思われるが、いずれにしても、ここに計算と公開の1つの係わり方をみることができ、それがまた今日的会計問題の特徴でもあるわけである。

第2は、その「公開原理の計算・測定構造への侵入」に係わって、「取得原価主義の論理枠」ということ、つまり「計算の論理」に関してである。情報開示志向をいっそう強める今日の会計(情報開示会計)においては、あるいはそうであるがゆえに、実態情報の開示要求に応えるという開示志向の方向は、いっそうの「会計の空洞化」をまねきかねない。その1つの典型をいわゆる「ジェンキンズ・レポート」でのfinancial reporting (財務報告)からbusiness reporting (事業報告)への方向にみることができる[34]

投資家にとって見えない経済的実態やリスクを開示するというだけなら、必ずしも財務諸表本体で開示する必然性はないし、またそれは直ちに資本利益計算としての会計問題に直結するというものでもない。したがって、「公開原理の計算・測定構造への侵入」というときの計算・測定構造の中身、とりわけ「取得原価主義の論理枠」とは何であるか、このことがまずもって明らかにされなければならない。この点について津守教授はまた別の論文において、とりわけ時価主義が信用・擬制資本と係わることとの対比において、「取得原価主義が生産・現実資本に密着した鞏固地位を占めている」172頁)と説明されている。すでにいくつかの論文のなかで強調したところであるが[35]、金融商品の時価会計を計算構造論的に考察することは、それがこれまでの原価主義会計と本来的に対立するものではけっしてなく、むしろ原価主義会計が本来捕捉しようとしていた対象とその枠組みをよりいっそう明らかにすることにつながる。すなわち、財・サービスの生産・販売という実物経済(生産・現実資本)がまさにその対象にほかならない。その意味で、ここで指摘されているように、「生産・現実資本に密着した」と言われる原価主義会計の経済的基礎についてはきわめて的を射たものであると思われる。

津守教授はまた別の箇所で、「しかも、現実資本・『記録』が本来的に取得原価に馴染むのに対して擬制資本・『公開』はむしろ時価に適合性をもつ。なぜなら、擬制資本は配当額を平均利子率プラス危険プレミアムで資本還元して形成される『資本商品の価格』であり、本来的に『製造原価』を有しないからである」(津守[1995]32)と述べられている。そこでの「現実資本−記録−原価」と「擬制資本−公開−時価」との対応・区別に注目したいと思う。

ただ、今日の会計問題の特徴を理解するにおいて「現実資本−記録」と「擬制資本−公開」との対応・区別の強調は十分理解できるが、擬制資本の会計問題は公開の次元だけでなく、記録・計算の次元でも問題になりうると考える。むろん、津守教授が時価会計をすべて公開の次元でのみ捉えられておられるとは思われないが、これまでの原価主義会計が何であったのかを浮き彫りにするためにも、擬制資本の(公開だけではなく)記録・計算問題、より端的にはその資本利益計算の問題が明らかにされなければならないように思われる。その意味で、原価に対する時価が「擬制資本−公開」という観点から、とりわけその「適合性」(擬制資本→公開→時価)という観点から説明されている点は、金融商品の時価評価の記録・計算上の論拠づけという点では議論の余地があるように思われる。

むしろ、擬制資本の価格が「資本商品の価格」であり、本来的に製造原価をもたないと述べられている点、すなわち実物の商品とはまったく性質を異にする特殊な商品(資本商品)であること、このことがすでに述べてきたように、現実資本に係わる記録・計算問題とは区別される擬制資本に係わる記録・計算問題と密接に係わっているのである。したがって、そうした観点からすれば、原価主義会計が「自らその論理枠を破壊している」というよりも、そもそも原価主義会計の捕捉対象と今日の時価会計の対象とは本来的にその性格を異にするという意味で、むしろその論理枠ないし認識・測定の会計枠組みをいっそう明らかにしているとさえ思えるわけである。つまり、一言でいえば、津守論文での表現を借りれば、「全く別個の次元の問題」はまずは計算レベル(とりわけその対象)において捉えることが可能かと思うわけである。

それゆえに、同じ時価会計の問題でも、つまり同じく「原価」対「時価」の対立議論であっても、かつての「個別価格変動会計」での、現実資本に係わる記録・計算レベルでの「原価」対「時価」の対立視点と、今日の金融商品を中心にした「公正価値会計」での、擬制資本に係わる記録・計算レベルでの「原価」対「時価」の対立視点とは本来的に異なるものである。そのことは、そこでは擬制資本の経済的性格からして「原価」およびその費消配分としての「費用」なる概念が妥当しないという点にも典型的にみられる。その本来的に異なるという点が計算構造論的にどのように現れてくるか、このことがまず明らかにされなければならないように思われる。その構造の解明において、ふたたび公開の論理がどのように係わってくるのか、このことが「計算と公開」の(統合)問題にとって、金融商品の時価会計問題という場での1つの理論的課題であるように思われる[36]

 

2 開示の側面での変容−財務業績報告の多元化と時価会計−

 さて、報告あるいは公開の問題を議論するとき、制度的には財務業績報告の多元化という将来方向についてもふれておかねばならない。とりわけ、「変容問題」にてらしていえば、その将来方向において伝統的な原価配分と実現の概念から導かれる伝統的な利益概念がどのような位置づけになるのか−別個表示されるか、あるいは「包括利益」のようなかたちになるか−という観点から、開示の面での変容問題をみておかねばならない。

今日の金融の国際化・グローバル化、証券資本主義のいっそうの拡大化・高度化にともなう金融・財務取引の量的・質的拡大により、とりわけ特定の金融資産・負債の時価変動差額が1つの成果として認識・測定されるようになると、その成果計算がそれ自体あらたな会計認識・測定の枠組みを促し、1つの成果計算として認識されるようになる。こうして、金融商品に関する新たな会計基準設定に典型的にみられるように、金融資産・負債に係わる成果計算が自立化し始め、そのことから財・サービスの生産販売という実物経済に係わる成果計算とどのような再構成のもとで新たな成果計算システムが展開されるか、このことが1つの課題となる。

こうした課題にとって注目されるのは、米国(FASB)や英国(ASB)における財務業績報告の多元化という動向である。とりわけ、先に述べた「変容問題」からすれば、そうした動向において伝統的な原価・実現の枠組みに基づく成果計算がどのような位置づけになるのか、ということが検討されねばならない。

ここではあまり詳しく述べないが、1つの参考になるのがG4+1が相次いで公表した「財務業績の報告」という特別レポート(1998年)およびポジション・ペーパー(1999年)である[37]。そこでは、業績報告の今後のあり方について4つのアプローチ(アプローチA、B、C、D)が示されており、多元的な業績報告において伝統的利益を報告するかどうかで、大きくは2つの見解に分かれている。

すなわち、第1の見解(アプローチA、B)では「稼得-実現-対応利益」(earned-realised-matched income)とよんでいる伝統的利益とそうでない利益との二元的見方(dual perspective of performance)をとっているが、第2の見解(アプローチC、D)ではそうした二元的な見方をとらず、財務業績について単一の見方(single perspective of performance)をとり、そのなかで伝統的利益は明示的にはでてこない。そして、単一の見方といっても、後に述べるように、その財務業績書のなかでいくつかのカテゴリーに区分されるが、要は先の第1の見解と異なり、そこでは伝統的利益を報告するような区分にはなっていないわけである。そして、結論だけいえば、G4+1はこの後者のアプローチの方を採ろうとしている。ここに、伝統的な「稼得-実現-対応利益」が明示的にでてこないという点で財務業績報告の明らかな「変容」をみてとることができる。もう少しいえば、そこには「情報セットアプローチ」という考え方、これはイギリスのFRS3号「財務業績の報告」(1992年)の基底にある考え方であるが、利益という単一の指標に集約せず財務業績の重要な構成要素を強調する方が有用である、という考え方に根ざしているといえる[38]

ここで、第1の見解についてもう少しいえば、そこでは二元的見方アプローチといっているように、「歴史的原価」、「実現」、「対応」といった伝統的利益計算の基礎にある概念をふまえているということ、そしてそうした概念では捉えられないような損益はそれとは区別して報告されるということである。ただ、そこには、すぐ後で述べるように、経済活動の本質的相違によるカテゴリー区分という見方はないこと、少なくともそうした活動区分との関連についてはまったくでてきていない、ということが指摘される。筆者の問題関心からすると、伝統的な利益計算の基礎にあるそうした会計概念は、次に述べる経済活動の本来的相違と結びつくように思われる。そのことで、伝統的な利益計算の対象とその本来的枠組みもよりいっそう明らかになると思われる。

そこで、第2の見解の単一の見方をとりながらも経済活動をカテゴリー区分する報告についても、もう少しみておきたいと思う。アプローチC、Dはともに伝統的利益を明示的に報告せず、財務業績をいくつかのカテゴリーに区分して報告する。ここでは、G4+1が最終的に採用しようとしているアプローチDについてみておきたいと思う。すなわち、そこでは財務業績は@営業(販売)活動(Operating(trading)activities)、A資金調達およびその他の財務活動(Financing and other treasury activities)、Bその他の利得・損失(Other gains and losses)の3つに区分される。Bは主として固定資産の再評価による利得・損失であるので、それをいったん外におけば、@とAの区分は結局のところ、営業活動と金融・財務活動の区別ということになる。

重要な点を2つ指摘すれば、その第1は財務業績を営業活動(operating activities)からの利益と財務活動(financial activities)からの利益とに明確に区別しているという点である(2つの自立した成果計算)。すなわち、そこでは「実現vs.未実現」といった二区分ではなく、経済活動の基本的相違に基づいて区分されているという点である。第2はその区別が評価原則の違いに結びついているということ、すなわち前者の項目(operating items)は基本的に歴史的原価の評価に、後者の項目(financing items)は市場価値ないし公正価値の評価に結びつくということである。ここで、前者に関する該当部分を引用しておこう(下線は引用者)。

 

5.41 The statement is divided into three main components. One is for operating or trading activities, which generally are the primary value-adding activities of most entities. That component reflects items that, for the most part, are measured in terms of historical costs and entail the matching of revenues and expenses.L.T. Johnson & A. Lennard [1998], p.45

 

しかも、@営業(販売)活動については、原文を下線で示しているように歴史的原価による評価と収益・費用の対応というところが注目される。これはまさに伝統的な「原価−実現」の枠組みに結びついている。重要な点は、@営業(販売)活動(その内容はvalue-adding-activities)による業績測定には原価主義会計の枠組みが妥当し、A資金調達およびその他の財務活動による業績は、それとは明確に区別されるという点である。

いずれにしても、今日の金融商品の時価評価問題を単に資産評価の問題としてではなく、成果計算の問題として議論するとき、損益計算書の様式がこれまでとどう変わるかという観点から見ていくことが1つの理解の仕方になる。なぜなら、そこには成果ないし業績の見方が反映されているはずであり、その背後にあるはずの成果計算の違いが損益計算書の報告様式の違いという具体的な形の中で見ることができるからである。その意味で、G4+1が示した4つのアプローチは業績報告の今後の方向を展望するうえで非常に重要であると思われる[39]

ちなみに、IASBは今後の検討議題を公表しているが(2001年7月の第4回IASB会議のあと8月2日に公表)、そのなかに保険会計、企業結合、株式報酬制度とともに業績報告が主要な議題の1つとして取り上げられている(来年度中には公開草案が出る予定)。また、FASBも8月17日(2001年)に企業の財務報告に関するアジェンダ・プロジェクトを提案している。その背景には、いわゆるプレス・リリースで用いられる「プロフォーマ利益(pro forma earnings)」(実質ベースの利益)の乱用という問題があげられる。さらに、わが国の産業界(自動車、電機)でも「実物」(製造・サービス)と「金融」の経済活動に区分された損益計算書および貸借対照表を開示する動きが始まっているのは注目される[40]

なお、こうした多元的な財務業績報告の背後にあるものをさらに考察していくことが、今回の統一論題の重要な柱になっている「社会科学としての会計研究」の方法かと思われるが、その点も後で少しふれたい。

 

3 開示規制と配当規制−国際的調和との係わり−

その点を先に述べておいて、ここで業績利益計算と分配可能利益計算との関係について若干ふれておきたい。すなわち、こうした業績報告の多元化ないしは多重化といった動向が、仮に将来わが国の会計制度のなかにも導入されるようになると、市場原理を基礎にした投資家のための情報提供の会計(証券取引法会計の基本目的)と利害調整機能を基礎にした債権者のための配当可能利益算定の会計(商法会計の基本目的)との乖離はいっそう大きくなることが予想される。したがって、今後両者の調整問題が議論されるなら、これまで制度改革のたびになされてきたもの(例えば昭和37年、49年)とは相当レベルを異にする可能性があるように思われる。商法会計の本来的目的がこうした多元的な業績の測定・報告といった将来方向とどのように整合的なものとして調整できうるかが新たな課題になるわけである。

周知のとおり、法制審議会は「商法等の一部を改正する法律案要綱」1999年2月16 日、以下単に「要綱」)のなかで次のように述べている。すなわち、「以上のような状況のもとで、要綱は、企業の資産状況を適正に表示するとともに、国際的な会計基準との調和を図り、企業会計原則との整合性を確保するため、一定の資産について時価評価を可能とする方向での商法上の資産の評価基準の見直しを行うこととしている」(法務省民事局参事官室[1999]41頁、傍点は引用者)[41]。すでにこの要綱に基づき商法は平成12年に改正されたわけであるが、特にここでは国際的な会計基準との調和に加えて、企業会計原則との整合性の確保という点(開示規制の面)から時価評価の導入が図られたことに留意しておきたい。ただ、他方で、大蔵省・法務省「商法と企業会計原則の調整に関する研究会報告書」(1998年6月16日)においては、投資家への情報提供の面(開示規制)では今後も企業会計原則との整合性を確保するとしながらも、当時における時価評価差額の配当可能性の問題(配当規制)は今後の検討課題として実質先送りになっていたことも留意しておかねばならない点である。

もう少しいえば、この点については商法の従来の考え方(論理)が如実にでてくる。すなわち、同じく要綱では「…このような不確実な利益を配当することを認めるときは、会社の財産的基礎を危うくし、会社債権者等を害するおそれがあることから、配当可能利益の計算上は、貸借対照表上の純資産から、時価を付したことにより増加した貸借対照表上の純資産額を控除すべきこととされた」(同41頁、要綱第一の三の4、傍点は引用者)と述べている。具体的には、第290条1項に6号を新設し、時価評価による資産の増加分(時価総額が取得原価の総額を超えるとき)を純資産額から控除するかたちで調整する改正がなされたわけである。そこでは、未実現評価益が未実現評価損より大きいときは、その差額である評価益は配当可能額に算入されない、つまり評価損の範囲までは配当可能性を認めるという意味で折衷論的な扱いとも受け取れるが、仮にすべてが評価益であれば、それらはすべて配当可能額に算入されないことになるから、その点で評価益の配当可能性は基本的に否定されているわけである。

 以上のように、開示規制と配当規制とは従来通り商法第290条という調整場でなんとかつじつまをあわせる形にはなっているが、先に述べたように業績利益の多元化といった方向が将来においてわが国にも導入されるようになると、そのようなこれまでの調整方式ですむのかどうか、筆者には疑問に思われる。それは調整といったレベルを超えて、両者は基本的に分離していく方向になる可能性も十分考えられるわけである。分配可能利益という枠を1つの円として描けば、業績表示利益の円はその大円のなかにあったものが、次第に横にずれていって、最後に別の円として分離していくといったイメージであり、現在は2つの円がまだオーバーラップした部分(共通部分集合)を共有して未分離のまま重なっているということである。そして、その分離の度合いは原価主義会計に対する公正価値会計(時価主義会計)や現在価値会計(来価主義会計)が新たに導入されるその度合いに応じて強まり、次第に完全分離に近づいていくということが考えられるわけである(図表4参照)。

 

図表4 分配可能利益と業績表示利益の関係

 

 

4 会計規制の国際化−調和化から統一化へ−

 ところで、会計規制の国際化の問題は、今日、もはや先の調和化といったレベルをはるかに超えた、きわめて重要な局面にさしかかっている。20世紀末に世界の会計規制をめぐる覇権闘争(ヨーロッパ対アメリカ)がみられたが[42]、今日、IASCは周知のとおり今年(2001年)4月にあらたにIASB(国際会計基準審議会あるいは理事会)に改組され、英米系すなわちG4+1(英、米、加、豪・ニュージーランド+IASC)に代表されるアングロサクソン系の会計規準を中軸にした世界標準化、「収斂」(convergence)化あるいは「統一」化が行われようとしている。しかも、その統一化のスケジュールはわれわれが想像する以上のスピードで、つまり10年後といった悠長なものではなく、比較的短期間にそれにむかって突き進もうとしている最中なのである。その証拠に、EUは遅くとも2005年までにIAS(IFRS:国際財務報告基準)に基づく連結財務諸表の作成を欧州の上場企業に強制することがすでに決まっている。こうした統一化の動きは、あたかもコンピュータのOS(オペレーティング・システム)でのウインドウズのように、いわば会計OSの世界における“マイクロソフト化”ともいえる。

ひるがえってわが国では、周知のとおり、今年8月に民間の基準設定機関「企業会計基準委員会」があらたに設立された。この各国の基準設定主体とIASBとの関係はいわば共同作業(Joint Project Approach)という関係であり、IASCのときと違って公認会計士協会ではなく基準設定主体との連携、それも共同作業という形をとった連携であるところが重要な点である。

しかし、その共同作業といっても、先ほど述べたように、(旧)G4+1に代表される英米系の会計基準が中軸になることは誰が見ても予想されるところである。そのことは、例えばIASBのメンバー構成をみただけでも明らかである。すなわち、14名のメンバーのうち独、仏、日、スイスの4名以外の10名すべてが英米系(加、豪、南アの3名を含む)である。たとえは物騒かもしれないが、いわば多国籍軍を編成してもその中心は英米であり、日本はせいぜい後方支援の位置にしかいないわけである。実際、そのJoint Project Approachといっても、@リード役、Aサポート役、Bモニター役、といったレベルの違いがあるそうだが、当面の日本の役割はそのなかでも最後のモニター役という少々「さびしい」ポジションにとどまりそうな気配なのである。まさに世界の会計基準の統一化にむけた闘争の後方支援の位置にいるわけである。

では、共同作業といっても下請作業的な存在にならない、より積極的な貢献は可能なのであろうか。確かに前線で戦うことはできなくても、貢献のあり方いかんでは、わが国も期待できる面があるように筆者には思われるが、そのことにふれる前に、ここで統一化そのものの問題点について若干ふれておきたい。

会計基準の世界標準化、収斂化、統一化のプロセスにおいて、Joint Project Approachを採っても、すでに述べたようにその中心は英米の会計基準になることは十分予想される。ここで、その問題点を2点だけ指摘すれば、その第1は同一経済事象に同一の会計処理といった画一化の方向の問題である。彼らの考え方の一端は、例えばIASB副議長の次の発言、すなわち「会計は法律とは異なり単なる技術的な手法です。…経済取引としての性格は世界中同じであって、ゆえにそれらの会計処理方法も世界中同じでなければなりません」という発言のなかに端的に表れている[43]。しかも、その経済事象というのは英米での経済慣行が想定されているのは、持分プリーングの廃止理由、すなわち本当の対等合併などは(米国では)存在しないという理由のなかにも垣間見られる。

第2はJoint Project Approachの意味合いに係わる問題である。すなわち、そのアプローチを採用した一番の理由について、同じく次のような発言、すなわち「もし、国際会計基準が世界の主要国の会計基準設定主体と共同で作られれば、それが各国によって受け入れられる可能性が高まるわけです」との発言にもみられるように、このアプローチを採ること自体が会計規制の統一化への各国の合意を得る手段にもなっているということである。米国が多国籍軍をもって戦争を合意化することと、会計の世界統一のために英米が中軸になって各国と共同作戦を行うということと、どこか類似しているように思われる[44]。さらにいえば、発展途上国がこの会計の世界統一化のなかでどのような立場にあり、またどのような影響をうけるか、慎重に検討する必要があるように思われる[45]

 さて、わが国の主体的貢献であるが、かれらと前線で共同作業するといっても、かれらの主導でなされることは先に述べた問題点からも十分予想される。したがって、筆者、結局のところ、その貢献のあり方は個々の会計基準そのものよりも、その基礎付けに係わる「理論」にまず求めるべきではないかと思う。すぐあとでも述べるが、英米のひとたちはプロフェッションに密着した個々の会計基準設定といった作業はきわめて得意であるが、それらを基礎づける概念といったレベルになると、そこでの理論は非常にプロフェッションからの規定を受けているように思われる。会計が現実には制度として機能している以上、当然であるといってしまえばそれまでであるが、プロフッションに規定された理論そのものの性格が問われるわけで、そこから距離をおいた、ある意味で(古典もふくめて)純然たる理論といった観点からの検討作業もあっていいように思われるし、それがまたアカデミズムの本来的な役割であり位置ではないかと思われる[46]。そして、こうした理論的作業は、どちらかといえばわが国やドイツなどの全体の体系や概念を重んじる国の会計研究の方が得意であったように思われる。確かに、英米はそうしたピースミールな会計基準設定を基礎づけるために、いわゆる「概念フレームワーク」を設定したわけであるが、それ自体にも問題がないわけではないし[47]、後でもふれるが、その制度的性質の分析が「社会科学としての会計学」の1つのあり方でもある[48]

 とりわけ、その理論のさらに根底に大きくは2つの異なる会計思考、すなわち「フロー思考」の会計観と「ストック思考」の会計観があって、その関係がかならずしも明らかではなく、その折り合い(たとえばインコンパティブルなのか、それともコンパティブルなのか)も決着していない今日、そのことは重要である[49]。まして、国際動向において、われわれが思考するものとは異なる会計思考のもとで統一化が進んでいるなら、なおさらである。かりに、一方の会計思考であるストック思考が経済実態とか財務リスクの開示、あるいは財務透明性といったものからでてきているなら、そこでの理論とはいかなるものかが問われる。そこでは、どうしても開示志向、開示優先の会計になっていくような気がする。理論の性格が外向きであり、したがって計算の内在的な論理が背後におしやられ、その「外」と「内」との関係も見えにくくなる。さらに言えば、ストック思考を行きつめていくとその先には、資産あるいは負債の直接的再測定によるいわば「直接的損益」計算といった、これまでの会計的配分を基礎にするものとは異質な損益計算が想定され、さらにその延長の先はもはや複式簿記を必要としない世界が想定されるように思えてくる。これに対しフロー思考においては、実態開示ではなく利益計算がその中心になり、そこから会計的概念も構成される。そこでは、利益は複式簿記の記録計算を通して導出される仕組みになっており、伝統的にはこの会計思考のもとで企業会計は構築されてきたわけである。したがって、あらためてこのもう1つの会計思考に立脚した概念枠組みを構築することが必要ではないかと思われる。

ちなみに、FASBも()IASCでの概念枠組みも、いずれもいわば「資本等式」という会計構造に基礎づけられた建物のようなもので、建物の基礎構造が異なれば建物の姿も変わるように、別の構造に基礎づけられた別の建物をつくってみるという作業が重要ではないかと思われる[50]。こうした理論的作業は日本がその先導役を担ってもらいたいし、同じくIASBのメンバーのなかでも、とりわけ英米系のメンバーと比べてみて(彼らにはそうした会計構造論的研究の蓄積に乏しい)、日本の方にその理論的蓄積があるように筆者には思われる[51]。これなどは、日本の貢献、積極的参加の1つのあり方ではないかと思う。

「企業会計基準委員会」の初代委員長の斎藤教授は、この日本の国際貢献という点で、「最先端で工夫をするというより、アメリカがやるようなことを少し離れて見ながら、全体としての体系をきちんと確立して、会計基準に堅固な概念の基礎を与えていくことが、むしろ日本のなし得る最大の国際貢献ではないか」(斎藤[2001a]65頁、傍点は引用者)と発言されている。このことは、まさに先に述べたことに通じている。筆者は、斎藤教授が英米の概念的枠組みに対比されるもの(たとえば「配分」思考を基軸にした枠組み)を想定されているかどうかは別にしても、ストック思考とは基本的に異なる会計思考に基礎づけられた概念的枠組みを相対比較させて、その次にそれらをどう再構成するか、あるいはどう繋なげていくか、そういった作業をすべきではないかと考える(先の図表1も参照)。そのためにも、まず第1の会計思考の上に立つ建物をある種純粋な形で描く作業が必要ではないかと思う。

 

V 社会科学としての時価会計

1 理論のあり方−プロフェッション性および実証研究−

今日の時価会計問題を考えるとき、理論のあり方といった点も議論の俎上に載せられるかと思われる。すなわち、今日の時価会計問題は資本・利益計算の枠組みの再構成、ひいては伝統的な会計理論の再構成といった、全体の体系性が問われるきわめて根本的な理論的課題をかかえている。したがって、単なる会計基準のための理論にとどまらず、より体系性をもった理論が求められるはずであり、そのことは、今日、いわゆる動態論的会計という、これまでの企業会計がその基礎にしていた会計観そのものが問われていることからも理解されるところである[52]。その意味で、わが国のこれまで蓄積されてきた(そこでは必ずしも特定の会計基準にひっぱられていないわけだが)理論研究の現代的課題をふまえた再構築の可能性が検討されねばならないように思われる[53]。しかし、他方で、そのことは単に純然たる学術研究にとどまらず、それが新たな会計基準の全体的理論をふまえた裏付けとしても意味のあるものでなければならないが、それが学界というごく狭い世界でしか通用しないという状況も指摘しなければならないかと思われる。したがって、ここに理論と制度の一方のみに偏重しない両絡みからの考察の重要性があるといえる。

ただ、こうしたわが国の純然たる理論研究においては、これまで蓄積されてきた理論研究が必ずしも今日的問題への発展的展開といったかたちで継承されていない点も指摘されねばならない[54]。もっとも、それらは今日の会計問題に、もはや発展的に適用され得ない、古びた過去の遺産にすぎないというなら話は別であるが。しかし、そう言ってしまうには、先学者のこれまでの理論的蓄積を軽視しすぎてはいないか、そもそもそう言えるだけの総括がなされているのか、きわめて疑問に思われる。今日そうした先学者の理論的蓄積が顧みられないのは、資本市場での有用性を中軸にした実証研究が主流となっていること以外にも、英米圏の研究スタイルにひっぱられた研究姿勢そのものも、その1つであるように思われる[55]

 先の欧米における会計基準のための理論的性格としては、わが国の会計研究と対比したとき「プロフェッションのための理論」といった性格、とりわけプロフェッションのためであるがゆえにその制度的性質が指摘されるが、その点はあとでふれることにして、ここでは実証研究に関してのみ取り上げておきたいと思う。

 

2 実証研究と会計基準−企業評価適合アプローチ−

これも日本会計研究学会での特別委員会報告「会計基準の動向と基礎概念の研究」でコメントしたことであるが、周知のとおり、近年、企業評価モデルと会計情報との関連で、会計数値を基礎にしている「オールソン・モデル」という評価モデルが実証研究において優位なものとして定着しつつある。ここではその評価モデルと時価評価との係わりについて述べるだけの余裕はないが、特に会計基準ひいては会計研究の性格におよぼす影響についてだけ述べてみたいと思う[56]

すなわち、結論だけ言えば、金融商品の会計基準など特定の会計基準はこうした企業価値評価モデルに整合的かどうかが、その妥当性の判断基準になりうるということである。いってみれば、会計基準の「企業評価適合アプローチ」ということである。しかし、これまで、少なくともわが国では、そうした企業価値を前提にした会計基準の説明理論は必ずしもなされてこなかったように思われる。例えば、業績利益も企業価値の事後検証といった位置づけではなく、むしろ分配可能利益といった枠内での業績表示利益として説明されてきたように思われる。

こうした議論の行き着く先は、企業価値評価モデル→その実証分析→会計基準の妥当性判断ということが考えられ、会計基準およびそれを支える会計理論は、その起点になっている企業価値の理論およびそれを支えるファイナンス理論と、その評価モデルの選択に係わる実証研究とに大きく依存することになるように思われる。となると、実証研究と会計基準との係わりがより具体的に検討されねばならなくなるわけであるが[57]、実際、包括利益とりわけ「その他の包括利益」概念の妥当性ないし有用性も、実証研究の成果いかんに委ねられている。つまり利益の概念というものさえも、外的有用性から導かれてくるわけである(図表5参照)。

 

図表5 会計基準の企業評価適合アプローチ

 

最近、こうした企業価値との係わりで会計基準が決まる1つの典型的なケースが、米国での会計基準のきわめて重要な変更のなかにみられる。すなわち、M&A会計におけるパーチェス法の一本化と、(それと引き換えに)のれん代の償却を廃止して減損方式のみにした会計基準(SFAS No.141およびNo.142) がそれである。ここで重要なことは、その変更の理由がどこから来ているかということである。FASB会長のジェンキンズ氏は、その理由について端的に「のれん代償却はとても恣意的なもので、それ自体にはほとんど情報価値がない」と述べている(日本経済新聞2001年8月17日、傍点は引用者)。のれん代の償却を廃止したのはこれ以外にもハイテク業界からの政治的圧力があった点も否定していないが[58]、この「情報価値がない」という見方が非常に重要である。つまり、償却から減損への計算論的根拠づけによる変更ではなく、企業価値(株価)に対する有用性という外的論理、およびその背後にある業界からの陳情を受けた議会の圧力といった外的要請がその重要な会計基準の変更に作用しているわけである[59]

こうした企業価値を起点にする議論の背景には「(米国を中心にする)インベスター・キャピタリズム→(機関)投資家および証券アナリストの役割重視→企業評価→評価モデルの開発→その実証研究→会計基準」といった一連の関連での(機関)投資家を重視した会計情報の役割ということが想定される。とりわけ機関投資家を重視した株式会社のあり方および企業行動が、会計基準および公開のあり方にも密接に係わっているということである[60]。このことは、後述の「社会科学としての時価会計」でふれたいと思う。

 

3 個別資本説と会計制度論−今日の時価会計問題との接点−

 さて、会計理論学会創立大会(1986年)での報告が掲載されている『会計理論学会年報No.1』(創刊号)では、「個別資本説」と「会計制度論・政策論」の到達点および現代的課題が、日本会計研究学会ではあまり見られない方法論で、それぞれ興味深くまたスケールの大きな報告がなされている。そこで、それらの報告をふまえて、ここではやはり今日的時価会計という具体的問題にひきつけて、それら2つの理論の今日的接点について若干議論してみたい[61]

(1)個別資本説と時価会計問題−会計の対象規定問題−

まず、個別資本説あるいは個別資本運動説についてであるが、陣内報告(陣内[1987])では重要な概念として個別資本運動の概念を「二重の意味で重要」であるとされ、「会計の対象規定」の問題と、「会計の本質規定」の問題をいずれも『資本論』を中心に議論されている。第2の本質規定については次に取り上げる小栗報告(小栗[1987])でもでてくるので、ここでは第1の対象規定に係わる問題についてだけ、若干述べてみたい。

筆者が有価証券の時価会計問題を考えはじめたさい、そのいわば出発点になったものは、「有価証券は商品Wか」という問いかけであった[62]。そこでは特に個別資本説の発展的展開といった問題意識をもっていたわけではないが、「有価証券は商品Wか」という問いかけは陣内[1987]での会計の対象規定に係わる問題という位置づけになりうるかと思われる。すなわち、その質問の背後には、いわゆるG―W−G’の運動とは性質の異なる運動が、個別資本の運動を対象にする企業会計では(マクロ的には貸借は相殺される)その対象になるのではないか、ということである。そのさい重要なことは、第1に貸付資本だけでなく、そのさらなる発展形態である有価証券に代表される擬制資本もその対象に入ってくるということである。第2に陣内[1987]にでている財務活動というものが、「現実の資本運動の前段階としての貸し付け」(37頁、傍点は引用者)すなわちファイナンス(資金調達)ではなく、つまり貸方側の問題ではなく、インベストメント(投下回収)、つまり借方側(資産)の問題であるということである。そのことを運動の範式でいえば、例えば中西説のように一番左端に位置づけられるのではなく、むしろ金融投資であるから実物投資と同じく右側に並列し、しかもそれとは異質の運動であるから、それとは区別されてその外側に位置づけられるという点である(図表6参照。但しAは有価証券)。

 

図表6 会計の対象規定−有価証券は商品Wか−

 

第3に、そのことと関連するが、資本運動とともに重要な概念とされている「所有関係」で言えば(その「所有関係」の意味するものについて必ずしも十分理解しているわけではないが−注63参照)、それが貸方側だけではなく、むしろまずは借方側(資産)の問題としてでてきているという点である。金融資産・負債は「契約上の権利・義務」であるから、今日の金融商品(権利商品)の会計問題は生産関係ではなく所有関係の会計問題として登場してきているわけで、それがしかも先に述べたように会計の対象規定の問題に係わっているのである[63]。いずれにしても、今日の金融商品の時価会計問題を個別資本説にひきつけて議論できるとすれば、それはまずは陣内[1987]での「会計の対象規定」の問題(計算の問題)として位置づけられるように思われる。そのことからすれば、逆に言えば、個別資本の運動を対象にする個別資本説では、今日からすればそうした異質な資本運動が明確なかたちで対象規定されていなかったという点が指摘されるわけである。

これに関連して付言すれば、マルクス『資本論』を基礎に会計理論(とりわけ計算構造論)を構築しようとする研究が最近英国でみられる。例えばBryer[1999]がそれであり、そこでは産業資本の循環運動の分析に基づく会計の一般理論について論じている。ただ、ここでの議論からすれば、会計の一般理論の構築にとって、現実資本(生産・流通資本)の運動と本質的に異なる貸付・擬制資本の運動も会計の対象にしなければならないという点が指摘される。なぜなら、今日の多くの会計問題は現実資本よりもむしろ貸付・擬制資本の会計問題として登場しているからである。特に、貸付・擬制資本に係わる資産(貸付金や有価証券など)が生産・流通資本のなかで(貨幣・非貨幣の分類軸とともに)論じられている点(Bryer[1999]p.557Table 2をみられよ)は1つの重要な問題点であろう。また、経済学に即した(その意味でBryer[1999]がいう客観的な)会計認識・測定論が無媒介に(例えば制度性をぬきにして)ただちに会計学となるのか、といったより大きな点も指摘される[64]。しかし、そうした問題点はあるものの、資本の循環運動の分析視角を会計理論にもちこんだ点、とりわけFASB概念フレームワークを資本運動に基づき批判的に分析しているのは評価されるだろう。

いずれにしても、そうした英国の研究とわが国でのすでに確立されその新たな今日的課題が問われている個別資本運動説との接点および、その相対比較が興味深いところとなろう。制度・政策論だけでなく計算構造論においても、わが国の理論的蓄積のレベルがあらためて国際的に認知される機会がようやく訪れているともいえる[65]

(2)会計制度論・政策論と時価会計問題−制度化された会計認識−

次に会計の本質規定の問題に移るが、その前に先に取り上げた「公開の計算への侵入」という問題をここで再び取り上げると、公開の計算への侵入であるかぎりにおいては、それは第一義的には先の「会計の対象規定」の問題ではなく、むしろ「公開の問題」として議論されることになろうかと思われる。このことが、これから取り上げる会計の本質規定、とりわけ小栗[2001]では2つの本質機能に区別されている第2の本質規定、すなわち「経済過程の媒介機能」に係わる。そこで、以下この問題について若干ふれてみたい[66]

さて、議論のポイントはその2つの本質機能の関係、ないしその関係の捉え方である。すなわち、端的には「Aの機能(経済過程の媒介機能:経済行為−引用者)は@の機能(経済過程の認識機能:認識行為−引用者)のあり方を規定し性格づける基底的役割をもっている」(167頁)と説明されているように、Aが@を規定する関係として捉えられていることである[67]問題はその規定の具体的内容であるが、先の「公開の計算への侵入」という問題は、ここでいえばその内容であるようにも思われる。ただ、先にも述べたように、今日の時価会計問題において、例えば「相場変動で利益が決まるか」という問いは、Aの問題そのものとしてではなく、まずは@の問題つまり「計算の問題」として議論しなければならないのではないか。少なくともその計算の議論がなければ、何がどう規定されているかも明らかにされないのではないかと思われる。

ただ、例えば先に述べた財務リスクの管理という側面は、個別資本のなかでの@の認識統制機能の側面ともいえるが[68]、そもそもそれがなぜ財務会計として利益計算のなかに入ってくるのか、それがなぜ業績なのかを議論すると、それだけでつまり@の議論のなかだけですむかどうかは確かなことであるように思える。先に「まずは@の問題」と述べたゆえんである。ここでは特に次の点、すなわち実態・リスクの開示→リスクをともなう資産・負債の測定属性という規定関係が重要であることを指摘しておこう。リスク開示(あるいはリスク管理)目的にはリスクをもっともよく反映する測定属性(例えば市場価格)が選択されるわけで、それをB/S本体でおこなうとその属性に規定された(これまでの原価・実現の枠組みとは性質を異にする)あらたな利益計算の問題が生じてくるわけである。さらに、包括利益概念、とりわけ「その他の包括利益」などは計算の論理だけからはなかなか出にくい性格をもつことも確かである。そこにはフロー計算としての利益計算とストック評価としての実態・リスク開示との異なる会計の交錯と(併存にともなう)調整の場となっており、それぞれの会計の背後にはそれぞれの制度的要請が存在していると考えられるのである[69]

いずれにしても、こうした制度的規定性ということでいえば、これまでの(歴史的原価会計の)会計計算にあっても、制度的規定を受けていないわけはないのであって、その何らかの制度的枠内で「実現」とか「配分」といった会計固有の概念が形成されてきたわけである[70]。したがって、今日、いかなる「資本運動の媒介的契機」(小栗[1987]27頁)が、「媒介」という用語がある意味で“便利な”用語であるだけに、そうした伝統的な会計計算の概念に対立的に係わっているかが明らかにされねばならないと思うわけである。このことは時価会計問題にかぎらず、他の今日の会計問題にも同じく言えることかと思われる。

さらには、それらの会計基準の基礎にある(英米系の)「概念フレームワーク」そのものの性格の検討も、ここでのAの機能との係わりで、非常に重要な問題であるように思われる。すなわち、何人かの論者がすでに指摘しているところであるが、要するに概念フレームワークそれ自体のもつ制度的性質、つまりプロフェッショナル会計制度に不可欠な制度装置とみる見解である[71]。ここでも、先と同じく、小栗[1987]での概念を使えば、「経済過程の媒介機能」や「資本運動の媒介的契機」のいかなる内容が、そうした制度的形態として典型的に現れている概念フレームワークに作用しているかを具体的に分析していくことが重要な研究課題になるように思われる。先に取り上げたIASBを中心にした会計基準の国際的統一化が現実のものになりつつある今日、また、その基礎に英米系の概念フレームワークが大きな意味をもつ今日、そうした分析は国際統一化の方向そのものを客体化・相対化するだけでなく、先にも述べたように、その相対化のもとで日本の会計基準のあり方に関する理論的貢献の可能性にもつながると思うわけである(以上、図表7参照)。

 

図表7 制度化された会計認識

 

まさに、「現実の会計も、やはり経済的内容と法的形態、制度的形態の統一としてあらわれる」(小栗[1987]27頁)というのはそのとおりであり[72]、眼前にある現実の制度を制度たらしめている「経済的内容」の分析をとおして、今日の会計問題の拠って立つところを明らかにしていくことが本当に「理解する」ということにつながるように思える[73]。このことはより明確な法形態として現れる法律学においても同様であり、例えば川島[1982]では法現象を社会制御という社会過程の一特殊場合として構成するモデルを展開しているし、また川島[1987]では「『所有権』として法律的に現象してくるところの近代的所有権について、その規範論理的意味(それは「法律学」の作業対象であるが)をではなくして、その現実的な社会現象としての構造を分析することである」(320頁、傍点は川島)と述べている。現実的な社会現象としての法律もそして会計も、それらを現象たらしめている「経済的内容」があるはずである。その意味では、「科学としての会計学」と「科学としての法律学」とはその学問的基礎を共有しているといえる。

 

4 社会科学としての時価会計−新たな「金融資産会計」の登場とその契機−

最後に、統一論題のサブテーマが「社会科学としての会計学の課題」ということであるので、それに即して「社会科学としての時価会計」ということについて若干述べてみたい。そのさい、まず社会科学として会計を議論するさいその要件は何であるかについていくつかあげ、次にそれらの要件にてらして、これまでつまり会計のなかで議論してきた金融商品の時価会計問題を社会科学としてどう捉えうるか、ということを考えてみたい。

まず、先の創刊号に記載されている「会計理論学会設立に当たって」と題する声明文のなかの次の一節に注目したい。すなわち、「会計の本質・諸機能・諸形態を総合的かつ歴史的見地から研究する」、あるいは「会計を社会的・経済的環境との関連において、総体的に研究する」という視点および方法である。この歴史的・総体的に研究するという方法が社会科学としての会計研究のあり方であり、これこそ会計理論学会に固有の会計研究のあり方であり、またその存在根拠であると思われる。そこで、それをふまえたうえで、さらにより具体的に「社会科学としての時価会計」を形成していくさいの要件を、ここでは木村和三郎の会計学(木村会計学)、とりわけその「方法」に求めてみたいと思う。

すなわち、周知のことと思われるが、木村会計学には3つの方法的特徴があげられる。1つは歴史的研究の重要性、2つは経済学的分析の重要性、そして3つめは理論と実践の統一である[74]。まず第1の点であるが、それは端的には「発生の歴史をたどることによって、事物の本質が明白になる」ということである。この観点から今日の時価会計を考察すると、冒頭で述べた時価会計のいくつかの系譜といったレベルにとどまらず、さらに歴史を遡って今日の会計問題を考察する必要がある[75]。つまり何が契機となって今日の時価会計問題が登場してきたのか、そのことを明らかにしなければ今日の会計問題を本当に理解することにつながらないわけである[76]。筆者は、あたかも19世紀の産業資本主義の確立・発展があらたな「固定資産会計」(減価償却会計)を確立する契機となったように、20世紀後半からの金融・証券経済の高度化・多様化に伴う金融資産の量的・質的変化が今日の「金融資産(負債)会計」の新たな確立を促しているように思われる。そのような歴史的なパースペクティブからすれば、今日の会計問題は19世紀の「固定資産会計」に匹敵するほどの、新たな会計の登場という見方も十分可能になるわけである[77]その意味では、「変容」というレベルを超えているということもできるかもしれない

そして、それらの新たな会計の登場が、一方の「固定資産会計」では生産資本に係わる問題として、他方の「金融資産会計」ではすでに述べたように生産それ自体ではなく、金融・証券という貸付・擬制資本に係わる問題として現われている。そして、その現れ方は異にしているが、いずれもその基礎には社会経済の動態的・構造的変化およびそれに伴う株式会社そのものの発展変化があり、そのことと密接につながって新たな会計が登場しているという点が重要なところである。となると、さらに今日の株式会社がどのような段階に達し、どのような変化をとげているか、さらには今後どのような方向にむかっていくか、という具体的な分析が今日の会計問題を解く1つの鍵になるように思われる(図表8参照)。すなわち、それが次の第2の経済学的分析に通じるわけである。                      

そこで第2の経済学的分析であるが、それは「事象の分析を論理的に展開するためには、『経済学』が重要」であるということ、「社会経済現象としての会計の解明に立ち向かうためには、あくまで経済学というフィルターを通してこそ核心にふれることができる」ということである[78]。この観点からすれば、特に1980年代後半あたりから顕著になってきた現代の株式会社制度のあり方の分析が、今日の時価会計をはじめとする会計問題を社会科学として解明する1つの鍵になるように思われる。この分析は第1の観点とあいまって筆者の研究課題の1つとなっているが[79]、ここではその一端だけごく簡単にふれておきたい。

すなわち、すでに述べたように、1980年代の後半からのいわゆる証券市場の「機関化」現象→株式会社制度のあり方(支配構造への影響)→会計計算と開示への影響、という一連の関連から今日の金融商品会計を説くということである[80]。もう少し概念的レベルで言えば、バーリー・ミーンズの「所有と経営の分離」から「経営者資本主義」(マリス)を経て(ここまではよく周知のところであるが)、今日の「投資家資本主義」(ユシーム)への発展過程を基礎にして、今日の計算と公開の会計問題を歴史的・経済学的に考察するということである[81]。IASBやG4+1といった国際動向も、単に会計基準の国際化、調和化、統一化といったレベルに止まらず、そうした資本主義経済の具体的な発展過程の一環のなかで捉えたうえで、今日的会計現象を解明する必要があるように思うわけである[82]。そうした見方から、会計の「計算と公開」の問題も経済の発展過程、とりわけ証券市場の発展過程および株式会社制度の発展過程の一環として捉えることが可能になると思うわけである[83]ここでは、特に機関投資家の国際的投資の増大がそうした会計規制の世界標準化の動向と密接に係わっていること、および1980年代半ばから現象化してきた企業価値(株主価値)思考の企業行動という点を指摘しておきたい[84](以上、図表8参照)。     

 

図表8 新たな会計の登場とその動態的契機

 

最後に第3の「理論と実践の統一」であるが、「最も抽象的な理論と最も具体的な現実との統一をはかる」ということである。筆者は、この「現実」を会計基準設定を中心にした会計制度ないし会計規制とみたいと思う。理論が具体的に会計基準を導くという点、あるいは理論からみた会計基準の問題点を明らかにしていく点はむろんであるが、究極的には、今回の論点の1つの柱である「計算と公開」の何らかの統合ないし総合に係わる総体的な理論づくりが、そこでいう「理論と実践」の統一につながると思うわけである。そして、そうした作業を可能にする洞察力こそ、(会計のなかだけでは不十分であり)先にあげた歴史的分析や経済学的分析によって可能になると思われる。

本稿で取り上げた金融商品の時価会計問題も、実はそうした洞察力に基づいて解かれなければならないわけであるが、いわば「社会科学としての時価会計」の序論としてその一端でも示すことができればと思う。

                  

補論 経済学の“選択”と会計パースペクティブ

社会経済現象としての会計の解明には経済学を基礎にした研究が重要になる。問題は、選択された経済学が会計の本質的機能や会計の動態をどこまで深く説明しうるかである。したがって、いかなる経済学を“選択”するかが重要になる。以下はサンダー・山地[1996]でのサンダー論文(第2章)と津守論文(第8章)を、2つの経済学とそれに基づく会計パースペクティブのコントラストという点に焦点をあてて論じたものである。

1 2つの経済学と“boundary line”

サンダー論文での2つのboundary line、すなわち「所有と経営の分離」(separation of ownership and control)、「所有の複数分散化」(subdivision of ownership into a large number of small pieces) が3つの組織形態を区分しており、それが@classical,Astewardship, Bmarket-based の3つの会計パースペクティブの区分に対応・反映している。とりわけ、津守論文での「生産・現実資本」と「信用・擬制資本」の対立(区分)はサンダー論文でのsecond boundary lineに対応しているとみることができる。重要なことは、このboundary lineの捉え方に関する2つの経済学、すなわち「組織の経済理論」(economic theory of organization)と「資本の経済理論」(capital theory)の違いおよびその相違が会計パスペクティブの相違にどう反映されるか、ということである。

そのことは、例えばサンダー論文では「所有と経営の分離」や「所有の複数分散化」という説明およびそれによる組織形態の変化の説明はなされても、例えば何故に所有が複数化するか、それは資本の理論からすれば「資本の動化」、「資本の二重化」の理論であるが、その動学的根拠がみられない。つまり資本の経済理論に比して、「発展の論理」に関する展開が十分に明らかにされているわけではない。しかし、capital theory perspectiveでは、周知のとおり、例えば「前期的商人資本」、「商業資本」、「産業資本」、「金融資本」といった「資本」を中心にした発展の論理が説かれる。つまり、サンダー論文での境界線が2つである必然性はなく、その第1のboundary lineの前にも、第2のboundary lineの後にもboundary lineを引くことができるわけである。組織形態も、したがってこの資本の視点からその形態の変化(企業形態の変化)を説明することができる。

さらにいえば、会計概念もそうした経済の動態のなかで相対化されなければならない。例えば、今日の金融商品を中心にした時価会計をそうした動態において(特に資本、利潤、信用、価格形成に関して)位置づけてみれば、図表9のように示される。破線枠で示されているのが、今日の時価会計に係わるところである[85]いずれにしても、いずれが動態を貫くものを見せているか、このことが2つの経済学のいわば“勝負どこ”のように思われる。

 

図表9 経済の動態と今日の時価会計の位置

 

@     資本:前期的商人資本、近代的商業資本、産業資本 → 貸付資本、擬制資本

A     利潤:商人資本の利潤、商業利潤、産業利潤    → 利子、利回り、投機利潤

B     信用:商業信用(流通信用)           → 資本信用

C     価格形成:費用価格               → 証券価格

 

2 会計パースペクティブのコントラスト

 このことは、ここで選択された2つの経済学がそれぞれの会計パースペクティブに反映されているので、会計の見方にとってますます重要になる。このことが、つまり「経済学と会計学」との関連において、津守論文とサンダー論文とを比較して非常に面白いところである。例えば、津守論文ではこのboundary lineを挟んだ経済基礎の対立が会計面での「記録・企業利益計算」と「公開・配当可能利益計算」との対立性として現れることを説明されているが、ではサンダー論文ではどうか、となるわけである[86]

 会計学の立場からは、境界線の“数と位置”は(サンダー論文では2つ)、会計および会計パースペクティブ(サンダー論文では3つ)の発展変化に対応づけられることになる。先の前期的商人資本の段階から金融資本、とりわけ擬制資本信用がよりいっそう発展している今日の経済ステージまで、それぞれに対応した簿記会計の動態および会計問題が俎上に載ってくるわけである。例えば減価償却に典型的に現れる原価配分による動態論思考は、周知のとおり産業資本の発展とりわけ固定資本の相対的拡大化によってもたらされたひとつの会計思考とみることができるが、こうした会計の動態をそれぞれの経済学(ここでは「資本」の経済学vs.「組織」の経済学)のパースペクティブがどう捉えるか。さらに今日の金融商品をめぐる会計問題に係わる会計パースペクティブの変化をどうとらえるか。いずれにしても、経済と会計の動態を捉える視点の違いが、津守論文とサンダー論文の“選択された”経済学の違いとしてあらわれている。そのコントラストが期せずしてたいへん面白いものになっているということである。

筆者の関心は、いずれの経済学を選択するかはむろんであるが、まずはそれぞれの選択された経済学の違いが会計の見方・捉え方のいかなる違いとしてあらわれてくるか、という点である。そうした関心からして、津守・サンダー論文での経済学の相違が、したがってその違いを反映した会計パースペクティブの違いが、どこにどういうかたちであらわれてくるか、このことに焦点を当てて両論文を比較吟味することが重要であるように思える。

3 動態を「理解」する

 ちなみに、最初の後藤論文はまさに擬制資本市場での一般投資家との係わりにおける会計情報(報告)の有用性の実証分析であり、こうした研究(情報内容・効果分析)はこれまでかなりの成果が蓄積されている領域である。中野論文は同じくmarket-orientedであるが、社会貢献活動レベルおよびその開示がモデルの中に入ってきているのが新しいところである。一方、須田・岡部論文は後藤論文と同じく実証研究であるが、それは(株式)市場ではなく、メーンバンクなどインナーサークルでの会計情報の役立ち(関係形成支援機能)の実証研究として位置づけられる。したがって、経済学の観点から見れば、サンダー論文でのeconomic agentの契約の観点に近いものになっている。ちなみに、メーンバンクと会計情報は、資本の経済学からすれば銀行資本の産業資本に対する相対的優位性からでてくるひとつの会計現象とみることができる[87]

同じ会計現象、会計問題を異なる経済学が、オーバーラップするところもありながら、重要なところで異なった見方としてあらわれてくるところが面白い。井尻論文(第7章)での「理解(understanding)」は、こうした会計パースペクティブの違いを洞察するところに係わっている。そのひとつの素材として木村和三郎の『会計学研究』での労働価値説をとりあげられたわけである。サンダース・ハットフィールド・ムーア『SHM会計原則解説』(レベル1)、ペイトン・リトルトン『会社会計基準序説』(レベル2)、木村『会計学研究』(レベル3)の方法論的比較(レベル1,2,3)は、その観点からきわめて興味深い。

いずれにしても、会計学研究においていかなる経済学をその基礎におくか、ということは社会科学としての会計研究にとって非常に重要になる。そのひとつの重要な選択基準は、先に述べた「動態」に対する理解の深さや洞察力が得られるかどうかというところにある。こうした深い理解がなければ、まさに「『理解なき説明・予測・作動』には大いに危険性がともなうものである。…理解のともなわないそれは微視的で枝葉にとらわれたものになりがちで、成功することがあっても一時的なものに終わりがちである」(井尻論文p.16)ということになるように思われる。こうした観点から、井尻教授は木村の『会計学研究』を高く評価される。すなわち、「…超理論のレベルで考えるとまったく同感で、基礎学問につながる会計学があってこそ会計の本当の『理解』が生まれるものだと考えられるのである」(156頁、傍点は引用者)と。

今日、アメリカを中心に会計の応用研究ないしは周辺研究がいっそう発展・拡大の傾向にある。それにひきかえ、あるいはそうした研究に傾斜しているがゆえにというべきか、「基礎学問につながる会計学」はかならずしも重視されず、また盛んであるとはいえない。したがって、今日はむしろ基礎学問につながる会計学があらためて問われているということができる[88]。本文での考察、すなわち金融商品の時価評価にまつわる今日の会計問題を、現実資本と本質的に区別される擬制資本の一層の発展・拡大に伴う会計問題と捉える原理的考察およびそれに基づいた「社会科学としての時価会計」の考察は、そうした「理解」としての理論の役割の1つのあり方といえるだろう。

2002年4月脱稿)

 

[付記]

 脱稿後、本稿Uの第2節「開示の側面での変容」で取り上げた財務業績報告の今後のあり方を巡る国際的議論が急速に、しかもこれまでとは異なった形で新たな展開をみせている[89]。まさにめまぐるしいばかりの展開である。そこで、この点に関して補足しておきたい。すでに本文でもみたように、財務業績報告のあり方に関しては@G4+1のレポート(1998年、1999年)がでているが、その後、A英国では2000年の基準草案第22号「財務業績の報告」(ASB[2000])、さらにBIASBは財務業績(=包括利益)報告の新たな提案(2001年の「原則書案」、2002年の「概念書」)を提示している。また、米国(FASB)では収益の認識に関するプロジェクト(2002年5月)も開始されており、IASB、英国ASB、米国FASBの共同作業をふくめた国際動向が急速に展開してきている。

筆者が注目したいのは、@とAでは業績報告の様式がいずれも3区分方式(3行1列:3×1区分方式)であったのが、BのIASB案では2行2列の様式(2×2区分方式)になっていることである[90]。問題は、この3×1アプローチから2×2アプローチへの変化の理論的基礎がどこにあるかである。前者の3×1アプローチでもその理論的基礎に関しては議論がつくされているわけではないが(詳しくは石川[2000]第9章補論9.2参照)、さらに後者の2×2アプローチになると、よりいっそう議論の余地がありそうである。とりわけ、ヨコ(行)の2区分軸(経済活動の基本的相違)は明確だが、タテ(列)の2区分の基準が何であるか、これが問題となる(タテの2区分軸に関する理論的基礎づけの問題)[91]。そのことは、その名称が「評価調整」から「将来利益の期待の改訂」そして単に「コラム2」と次々に変更されていることにもあらわれている。そもそも、「評価調整」とか「期待の改訂」といったものが、「包括利益」の名の下でいかなる「利益」なのか、利益概念にてらしてきわめて重要な問題をはらんでいる[92]。米国流の「その他の包括利益」についても、それがいかなる意味内容で「利益」なのかが(リサイクルする/しないの問題をふくめて)依然として決着していないなか(この点については石川[2000]第3章および第4章参照)、この2×2アプローチになると問題はいっそう複雑化するおそれがある。

財務業績報告(Performance Statement)のあり方は、単に報告様式の問題にとどまらず、これまでの損益計算書(Income Statement)の基本に係わる内容をもった問題であるから、いっそう理論的基礎づけの議論が必要になる。とりわけ会計の記録計算構造との係わり、そして会計利益概念との係わりで議論すべきである[93]。そこに、また本稿のVの第1節で議論した「理論のあり方」(財務業績報告のあり方にも現れている今日の英米理論を相対化しうる理論研究の重要性)が密接に係わるように筆者には思える。

 



*本稿は会計理論学会第16回大会(20011016日、駒沢大学)の統一論題「21世紀における会計の変容−社会科学としての会計学の課題−」での報告に若干補筆したものである。その目的は統一論題の「会計の変容」を、時価会計という場で、しかもその資本利益計算という企業会計のもっとも重要な任務に係わる問題において議論するところにある。そして、可能なかぎり、その具体的な今日的会計問題のなかに統一論題での3つの論点、すなわち@どのような会計の変容か(その特徴や性格は)、Aどういう意味をもつ変容か(変容の要因・背景は)、B変容は会計理論にどのような意味・課題をもたらすか、が包摂されるかたちで議論できれば−いわば「社会科学としての時価会計」−と考えている。

[1] 石川[2001b]参照。

[2] 金融資産ではないが投資不動産の時価会計も賃借料(インカムゲイン)と資本増価(キャピタルゲイン)の点からこの系譜の延長上に位置づけられる時価会計といえる。

[3] 土地や株式などの資産価格の下落(上昇)を資産デフレ(インフレ)というが(ストックデフレ)、一般商品の価格の下落(上昇)はフローデフレ(インフレ)という。この区別からすれば、事業用資産を対象とする個別価格変動会計と減損会計は、それぞれ「フローインフレ会計」、「フローデフレ会計」とよぶことができる。ただ減損会計は土地や株式も対象にするので、その点でフローデフレおよびストックデフレの会計ということができよう。

[4] この現在価値の会計への導入につき、井尻[1998a]では(原価主義、時価主義と対比されて)「来価主義」として議論されている。時価主義との関係では、「時価主義での時価の使用と、来価の代用としての時価の使用とは、評価論上は混同してはならない」(192頁)。そして、特に、「時価および来価の重要性を主張するあまり、原価の重要性が薄らぐように考えるのは大きな間違いである」(199頁)と警告されている。

[5] 第2の系譜の金融商品会計にもこうした株主価値(企業価値)思考の会計観が垣間見られる。すなわち、今日の会計には近代会計の基礎となった動態論思考から企業価値思考とでもいえる会計観の大きな転換がみられる。したがって、会計思考の史的変遷ということでいえば、「静態論」思考から「動態論」思考を経て今日の「企業価値」思考へという大きな会計観の変化をみることができ、その基礎にそれぞれの時代の経済的背景があるといえる。同じくストック志向であっても、清算価値をみる静態論とあくまで継続企業を前提とした今日の企業価値思考とはまったく別の会計観といえる。今日、さらに生物資産や農産物の時価会計が登場してきているが(IASC[2001]2003年1月効力発生)、これも企業価値思考からでてきているといえる。

[6] 日本会計研究学会[2001]での拙稿(202)では、立場を基本的に異にする2つの時価会計(「フロー志向の時価会計」と「ストック志向の時価会計」)が現実の制度では重なってでてきており、問題を複雑にしている点を指摘した。あとで述べるが(第3節)、金融商品会計の議論においても、その枠組みが「配分(フロー)か評価(ストック)か」という点が1つの重要な論点になる。注16も参照。

[7] より詳しくは石川[2000]第6章参照。

[8]「実現」は「事前の期待」の「事後の確認」という観点から捉えられており、事業投資(主観のれん≠ゼロ)の場合はこれまでの実現(販売)基準すなわちキャッシュフローを待って収益が認識されるが、金融投資(主観のれん=ゼロ)の場合は、その時価変動差額は「そのままキャッシュフローとみられて実現利益」となる。「事前の期待」を「事後の事実」で確認するのが「実現」の解釈となっており、主観のれんの有無がその事実の確認の仕方の違い、すなわちキャッシュフローを待つか、そのままキャッシュフローとみられるか、として現れているだけで、いずれも「実現」(期待が現実化)された利益として捉えられている。

[9] 例えば大日方[2001]では「費用の計算の根底には、歴史的に一貫して、対応/配分の概念が存在しており、それはまさに基礎概念とし位置づけられるべき存在である」(67頁)というとき、そこでの「費用」は実物の費用性資産の他に金銭債権や有価証券にも適用されうるものか、ということである。

[10] 原価配分あるいは費用配分は、支出額(ないしは将来の支出額)が収益との「対応」に基づいて期間配分されることを意味する。そこでは、けっして収入額とは結びついていない。一般に、(i)支出には@支出・未費用、A費用・未支出、B支出・未収入(および収入・未支出)が、また(ii)収入には@収入・未収益、A収益・未収入、B収入・未支出(および支出・未収入)がそれぞれ結びつき、(最終的に収支として完結するまでの)@とAの収支と益費との差異(不一致)は広い意味での「(期間)配分」によって最終的・全体的に調整される(配分し尽くされると“一致”する)。そして、原価配分とか費用配分といわれるのは、このなかで前者の支出に係わる@とAを意味する。ちなみに、@を現になされた支出および収入の(発生主義に基づく)「繰延(deferred)配分」(時の正順配分)といえば、Aは将来の支出および収入の(同じく発生主義に基づく)「見越ないし繰上(accrued)配分」(時の逆順配分)ということができる。いずれも期間配分であるが、そのうち「支出」に係わる繰延配分(現在支出=資産→費用化)と見越配分(費用化←将来支出=負債)が原価配分ないし費用配分といわれるわけである。なお、同じ理屈を「収入」にあてはめてみれば、繰延配分(収入・未収益:現在収入=負債→収益化)と見越配分(収益・未収入:収益化←将来収入=資産)となる。それらは費用配分(費用化)に対して、収益配分(収益化)ということができる。いずれにしても、そこでは配分(利益の決定)がストック評価を決めている(資産・負債の決定)といえる。石川[2002b]補遺1参照。

[11] この論点については石川[2000]第5章を参照。

[12] ただ、米山[2001](第2章)では満期保有の金銭債権(例えば貸出金)のような債券投資について、「原価配分のスキーム」による利益(利息収益)の期間配分について論じている。しかし、そこでは利息収益の配分(利息法や定額法)はあっても、どこに費用の配分があり、それが何と対応されているか、かならずしも明らかでない。金銭債権における「原価配分」の「原価」とは何であり、それと利息収益の期間配分とはどういう関係になっているか、ということである。石川[2002a]参照。

[13] これに係わって取引概念ないし現金概念あるいは収支概念の拡大による見解(現金概念拡大説)がある。藤井[1997]第9章参照。石川[2000]第7章補論7.1 では、そこでのコール・オプションの例を挙げて、その問題点について論じている。議論のポイントは、「@取得原価主義の認識=現金収支に基づく認識→Aその拡張=現金概念の拡張→Bオフバランス取引のオンバランス化という拡張論理の筋道を指摘したが、オプションの公正価値評価は@のたんなる拡張・延長ではありえない。そこに拡張論理を適用できるかは、資産の「直接評価」というものと現金収支の拡張との接点をどこに見いだせるかにかかっている」(201)という点である。

[14]IASC[1997]での新たな資本維持概念は次のとおりである。「金融商品の公正価値の変化から生じる損益の報告に対して適用される資本維持の概念は、現在の市場収益率を稼得する能力(capacity of earn the current market rate of return)という意味で資本を定義するものである」(第6章パラグラフ2.4)。なお、井尻[1990]では「財産会計では現金が測定の基準になっているのに対し、利速会計では現金掛ける市場利子率がひとつの測定基準となり、遊休資金を投資した場合の原速の決定に用いられます」(80)と述べられているが、名目貨幣額ではなくその経済学的価値を維持するという意味でそれを「経済的資本維持」といえば、「利速会計」は資本維持の観点から「経済的資本維持」会計として捉えることができる。この点で、ここでの現在市場収益率資本維持と相通じる点があるといえる。石川[1990]84-85頁でのstatus quoと資本維持概念、および石川[2000]322頁注(15)参照。

[15] 例えば「もし金融商品の公正価値の増加が貸借対照表で報告されるのであれば、それを企業の富の増加と考えてはならないのか?経済的な利益は、一般的に富の増加として定義される」(IASC[1997]第6章パラグラフ1.1、傍点は引用者)。なお、経済的利益と会計的利益については石川[2000]第6章(145-48頁)を参照されたい。

[16] 斎藤[2001b]においては、金融商品の保有損益(時価変動損益)につき「取引というフローに着目した会計測定が見落としてきた利益実現の一面を、ストックの評価という面から拾い上げたわけである」(219頁)と述べられているが、そこには配分(フロー)の観点よりは、むしろストック評価の観点が垣間見られる。この点については石川[2002a](12)参照。

[17] 非区分の考え方については、石川[2000]第6章(156-58頁)での保有損益の本質規定(笠井説)をめぐる議論を参照されたい。また、次の見解も参考になるだろう。「金融商品の公正価値の実現は、企業の経済的価値の増減をもたらす事象ではない。…実現の唯一の効果は、企業の財務エクスポージャーを変化させることである。…証券の公正価値の実現は利益を生まないのである」(IASC[1997]第7章パラグラフ5.1、傍点は引用者)、「実現は企業にとって金融商品の経済的価値に何らかの増減を生じる事象ではない」(JWG[2000]パラグラフ6.20)。これらは非区分の論理に根ざしているといえる。

[18] 先の日本会計研究学会(2001年9月13日、大阪学院大学)での特別委員会報告『各国におけるデリバティブの会計・監査および課税制度に関する総合研究』の第26章「デリバティブと会計の認識基点」(武田隆二教授担当)では、「プロダクト型会計」と「ファイナンス型会計」が「2局分離した異なる独立のカテゴリー」(450)として位置づけられ、「異なる計算原理のもとでは、異なるディスクロージャーを必要とするというのが論理の帰結である」(同455頁)と述べられている。まさに、ここでの「区分の論理」に通じる説明であるといえる。

[19]井尻・斎藤[1999](64-66頁)ではこの問いに関する興味深い討論がなされている。石川[2000]164-65頁の注(6)参照。

[20] 1970年代の個別価格変動会計(時価会計の第1の系譜)の時も、「会計と財務の交錯」がみられた。石川[2000]12章(310-12頁)参照。時価会計が登場するたびに、おもしろいことに会計の論理でない別の論理が介入してくる。したがって、その「交錯」ということに気づくには、まずもって会計の論理を明らかにしておく必要があり、会計であるものとないものとを見極めておくことが大切である。「会計の論理」については、それを徹底的に追求した笠井[2000]がある。

[21] 以上のより詳しい議論は石川[2000]第7章及び第11章参照。また、高山[1998]は擬制資本に関連する会計項目の統一的な理論構築をめざそうとしているが、その構想には賛成できる。

[22] ただし、見積現金購入価額<その支払総額の借り手の追加借入利子率による割引現在価値。

[23] 詳しくは、設例も含めて「リース取引の会計処理及び開示に関する実務指針」(平成6年1月)を参照されよ。

[24] 有価証券利息(フロー計算)→増価として加算(ストック評価)であって、その逆ではないことに注意する必要がある。もっとも、各期末の割引現在価値は増価加算された債券評価額(ストック評価額)に等しく、したがって増価される各期の有価証券利息は期末と期首の割引現在価値の差額であることに違いはないが。なお、割増発行の場合は、逆に額面よりも高い購入価額となるので簿価を毎期減額する(「増価」に対して「減価」)。

[25] 笠井[2000]778頁では負債としての社債が額面ではなく割引発行額で測定され、その差額が毎期社債評価額に増価(アキュムレーション)される。すなわち、そこでは額面で測定される「前払利息説」とはまったく逆に、いわば「後払利息説」の理論が展開されている。確かに、この説によれば、発行側(負債)と購入側(資産)の社債評価額が、ともに資産と負債の違いはあれ、「割引発行額ないし購入額→増価→期末評価額」として首尾一貫(表と裏が同じ論理)する。ただ、問題は発行側において契約利息の現金支払いも増価としていったん社債の評価額に入り、ただちに減価されるという解釈は、元本と利子の無差別・無区分という結果をまねく。この点で検討の余地があるようにも思えるが、要するに笠井説においては「収入しうべき額」という上位概念からは、元本も利息も無差別なのである。

[26] そのことは「金融商品会計に関する実務指針(中間報告)」での「有価証券や債権等の金融資産と異なり、金銭債務に利息法を採用しない理由は、社債発行差金の償却が商法上の繰延資産に該当しており、その償却については商法上定額法しか認めていないと解釈されることによる」(303項)との説明にも伺える。

[27] 笠井[2000] 704頁では「増価概念が、けっして取得原価の系譜に属するものではない」と述べられているように、そこでは明確に原価主義会計とは異質な概念であるとされている。その理由は取得原価概念が購入価額系統(支出・再調達原価など)であるのに対し、増価が売却時価とともに収入額系統(収入しうべき金額)に属するからである。「購入額系統」vs.「収入額系統」という観点からは増価は時価と同じ範疇ということになるが、「配分」vs.「評価」という観点からは増価は原価と同じく「配分」の範疇に属するとみることができる。その意味で、「現行会計は、取得原価・増価・時価の三者の併存会計なのである」(同、729頁)というとき、増価の位置がなお微妙であり、「原価・増価・時価の等価的併存」というときの等価の内容の検討がなお必要であるようにも思える。なお、筆者は測定対象の経済学的性質の違い(経済的基礎の違い)、すなわち実物商品と金融商品の本来的区分(「実物」vs.「金融」)の観点から、増価も時価もその対象が金融商品であることからして、「原価」vs.「増価・時価」という大枠の線引きが考えられる。ただ、その場合でも、先の「配分」vs.「評価」の観点との係わりが検討される必要があると考えている。

[28] 「金融商品会計に関する実務指針」(平成13年7月、日本公認会計士協会)47-54項参照。

[29] 減損会計での公正価値や使用価値(利用価値)による測定および簿価のそれへの切り下げ(その切り下げ額が減損)は時価会計ではなく、あくまで原価主義会計の枠内(配分計画の修正)の会計処理といえるが、そこでの使用価値による再測定がその時点でのあらたな情報や仮定に基づき、しかもそれが一過性のものでないとき、それはむしろ配分思考から離れて時価会計の思考に近づくといえる。詳しくは、石川[2001b]9頁参照。

[30] 例えばFASB[1990]では「市場の現在の状態を重視する直接的測定は、過去の情報を基礎とする毎期の配分および調整の手続きとは対照的なものである」(邦訳33頁、傍点は引用者)と述べているように、こうした直接的測定は伝統的な配分思考とは本来異質なものである。

[31] 津守理論にける「公開」については、特にそれが(単なる報告、伝達ではなく)「報告」から転化した「公開」という捉え方に注意する必要がある。津守[1996]167頁参照。

[32] 石川[2000]310-12頁参照。なお、今日の会計問題を相場変動に起因するリスク経済下の会計問題と捉えると、そこには「財務」の計算への侵入が、それとはかたちを変えて登場してきているともいえる。その意味で、「公開」と「財務」の双方の「計算」への侵入とみることもできる。

[33] 例えば石川[2000]第4章および第10章参照。前者において「今日の時価論議の背景には(静態論的思考とも動態論的思考とも違う)ひとつの(会計)思考、すなわち財務リスクの管理思考も含めて経済的実質優先思考がある」(450頁)と述べたが、その経済的実質優先思考が「計算」よりも「開示」の場で展開されているとみることができる。

[34] ジェンキンズ・レポートについては井尻[1998b]での「会計の顧客化」を参照。そこでの「顧客化」がジェンキンズ・レポートに代表される今日の情報開示志向を象徴しているといえる。また安藤[2001](第17章)では情報優位の会計が会計の本来的機能(利害調整機能)を空洞化する方向であると指摘している。いずれにしても、そうした情報優位の方向は、井尻[1998]での「科学の終焉」ならずも「会計の終焉」の方向といえなくはない。

[35] 例えば石川[2000]第1章、第9章参照。

[36] 「計算」と「公開」は、前者を計算「構造」(仕組み)の問題といえば、後者は制度「機能」(役割り)の問題であり、その両者の係わり方が総合化の問題といえる。あるいは、会計計算としての「方法」の問題に対して制度機能としての「現象」の問題、さらには別の観点から「解剖学」と「発生学」との係わり方の問題ともいえる。解剖学が同時に発生学であり、発生学が解剖学的分析をともなうといった方法が、両者の総合化問題に係わる。なお、会計研究における構造と機能および両者の係わりについては石川[1983]参照。

[37] L.T. Johnson & A. Lennard [1998]及びIASC[1999]詳しくは石川[2000]第9章参照。

[38] 辻山[1998]参照。

[39] その要約表は石川[2000]258頁の図表9.6を参照。

[40] より詳しくは筆者のホームページに掲載中の「時事会計入門」の「アメリカの決算発表と『実質ベース』利益」を参照http// :www2.bus.osaka-cu.ac.jp/faculty/ishikawa/profile.htm)

[41] ここで一定の資産とは、市場価格がある金銭債権、社債、株式等である(要綱第一の三の1から3)。

[42] 世界の会計コントロールを巡る闘争については井尻[1999]11頁でのBattle for World Accounting Control(Financial Times)の記事を巡る議論を参照。

[43] Jones T. E.・奥山章雄・加藤厚[2001] 14頁。

[44] ちなみに、ブッシュ大統領は9月20日の議会で「我々と共にいるか、テロリストと共にいるか、すべての国家は選ばなければならない」と警告している。テロでなくても、こうした米国の強い姿勢が会計の世界規制に係わってくることが、ここでの問題なのである。これに関連して、ここでは特に次の一節を引用しておきたい。すなわち、「唯一の超大国の指導者として、アメリカの官僚たちはきわめて自然に、まるで世界が一極システムであるかのように考え、行動する傾向にある。アメリカの力とアメリカの美徳を鼻にかけ、自国を慈悲深い親切な支配者だと考えている。そして、他の国々に、アメリカの原則、習慣、制度の普遍的な正当性について説教をたれ、他のすべての国もそれを採用すべきだとして押しつけようとする」と(ハンチントン/鈴木訳[2000]43頁)。米英主導のそして市場原理を機軸にした会計基準の国際的統一化を考えるさい、ふまえておくべき事柄であるように思える。今日、「グローバル経営」ということが1つの流行だが、それはいうまでもなく米国式をおしつけることではないはずである。なお、FASBの速報action alert(毎週出る)によれば、テロのあと直ちに920日にEmerging Issues Task Force (EITF:緊急課題特別委員会)の会議が開かれ、テロに係わる財務報告について議論がなされている。これなど、まさにプロフェッションに根ざした一例であり、わが国にはみられない行動である。ちなみに、EITFはテロ被害額を特別損失とは認めないこととしているが、ただ、各企業は独自の判断で実質ベース(プロフォーマ)の利益を公表することが予想される。実質ベースの利益については注40参照。

[45] IASBのもとにある「基準諮問会議(SAC)」は49名のメンバーがいるが、そのうちアフリカ(2名)、日本を除くアジア(6名)、中央・東ヨーロッパ(2名)、ラテンアメリカ(3名)、中東(2名)の構成となっている。なお、ここでも特に次の一節を引用しておこう。すなわち、「エコノミストの発言力が強い日本の知的社会では、経済人を中心にバランスを失した『グローバリズム』論によって歪んだ世界観に陥っている日本人が多い現状を考えれば、『文明の衝突』論は、きわめて健全なバランス効果をもつはずである」(前掲のハンチントン/鈴木訳[2000]202頁、中西輝政の解題より)。バランスを失したグローバリズム論に陥っているのは経済人のみならず、雨後の竹の子のように「グローバル××」といった冠が新しい大学院・学科や講座に付けられるのを見ると、大学人にもけっこう多いことがわかる。

[46] 会計基準設定における学界の役割、ないし「理論の価値」については、例えば井尻・斎藤[1999]での「我々は何をしたらよいか」が参考になるだろう。

[47] 例えばソロモンは概念フレームワークプロジェクトは失敗であったと断定している。村瀬[1996]45頁。会計基準および概念フレームワークの中立性と経済的影響についての井尻・伊藤の対談も参考になろう(井尻・伊藤[1997]52-54)。また、津守[1995]では収益費用観と資産負債観との比較問題に関し、定義の問題(資産負債アプローチしか採りえない)と計算構造(利益観)との問題とを区別し、そして利益観と定義いずれも、測定属性とが分離している点について議論している。ただ、定義の問題であっても、収支を原型にする期間損益計算(動態的貸借対照表)では、収支の(現金を除く)未決項目が貸借対照表を構成するから、収支と収益費用からの定義(収支・収益費用アプローチ)も可能ではないかとも思う。キャッシュフローとインカムそして未決項目の3つの動的関連については石川[2001]第5章参照。

[48] 例えば石川[2000] 第7章212頁での「会計の資本家的なあり方」に関する注(44)参照。

[49] 先の日本会計研究学会(9月14)での辻山報告では、世界には2つの異なる会計思考(フロー思考の会計とストック思考の会計)が併存しているとし、「第2の会計思考そのものの是非を日本のみならず国際的も改めて議論の俎上にのせることが、緊急の課題として横たわっているように思われる」と述べられている。

[50] 「資本等式」の構造に基礎づけられているという点については石川[2001a]第5章補論5.4参照。また別の会計構造については、例えば試算表の会計等式に基づく会計構造(企業資本等式説:木村理論、山枡・笠井理論)や実体・名目2勘定系統説(ケーファー・安平理論)の上に立つ概念枠組の構築というものが考えられる。英米系のそれと基本的に異なるのは、収益・費用の位置づけである。石川[1993]および石川[1996]参照。また、石川[1981]では井尻教授の会計測定の公理的構造を「原価配分」と「実現」の公理化として捉えたわけだが、「実物の会計」に「金融の会計」を加えたかたちで、その再構成ということが考えられる。この点については石川[2000]318-19頁の注(5)参照。

[51] ちなみに筆者がカーネギーメロン大学およびピッツバーグ大学にいたとき、Ph.Dの学生たちがシュマーレンバッハの名前さえ知らなかったのは驚きであった。この点については、石川[1991 ]131頁参照。先に開催された慶應義塾大学での第3回大学院生簿記会計学研究報告大会(20019月5〜6日)でもその傾向が現れており、シュマーレンバッハもペイトン・リトルトンも、そして木村も岩田も、そうした古典を特別勉強せずとも研究発表できる世の中になってきている。研究スタイルのみならず、「アメリカで、経済学や統計的知識をもつが会計学の経験がほとんどまたはまったくない会計学教員が増加した」(石川他訳[1995]104頁)ということまでも日本に輸入されるようでは、日本のこれまでの理論的蓄積は何であったのか、真剣に考えるべきであるように筆者には思える。

([52]) 例えば、醍醐[1993]においては「動態論的会計秩序に代替する会計秩序を拓く枠組み」(664頁)として「有機的静態論」という考えを提唱されている。しかし、その全体がいかなるものか、必ずしも明らかでない。

([53]) したがって、仮に「日本版概念フレームワーク」なるものを、とりわけ学界ないしは研究者集団が中心となって新たに作ろうとするなら、そうした英米圏のものと横並びではなく、むしろわが国の先に述べたような特色ある理論研究に根ざしたものを構築していくことが考えられる。

([54]) その例外の1つとして山桝理論を発展的に継承している「資産3分類説」(笠井説)をあげることができる。石川[2000]第6章参照。

([55]) 慶應義塾大学での院生大会(大学院生簿記会計学研究報告大会)に参加したが、そこでの報告にもそうした研究スタイルに係わる傾向が如実にでており、それはそのプレゼンテーションの方法(右に倣えのプレゼンテーション・ソフトを用いた“スマート”な報告スタイル)にも象徴されていた。もう少し、無骨でもいいので、古典をふまえた研究があってもいいというのが私の率直な印象であった。ちなみにいえば、論理の力や理論性といったものがあまりはばをきかさない、あるいはきかせにくい分野ほど(逆にいえば、そういった力量が明示的にあらわれにくいがゆえに)、えてして研究者集団や学界がステイタス主義やブランド主義あるいは徒党主義に陥りがちとなる。本来の学問とかけ離れたところで“勝負”しても、短期的にはともかく長期的にはむなしさだけが残るだろう。

([56])日本会計研究学会[2001]の拙稿(203-204頁)では 実証研究と会計基準との係わりについてふれている。

([57]) 例えば、株式市場反応研究の実務への影響については石川他訳[1995]103-104頁参照。八重倉[2001]では会計基準設定と実証研究について2つのアプローチ、すなわち「情報パ−スペクティブ」(超過リターンと会計データの相関分析アプローチ)と「評価パ−スペクティブ」(企業評価モデルを用いた会計基準の有用性比較分析)が紹介吟味されている。

([58]) このロビー活動による基準設定プロセスの政治的性質にかんする実証研究については石川他訳[1995]107-109頁参照。

([59]) アメリカでののれんの償却は会計原則審議会(APB)意見書第17号第29項で規定されたが(最大限40年)、その理由が第27,28項で述べられている。注目すべきはこの規定に対する反対意見である。実はこの反対意見にそった会計処理が今回の改正である非償却と減損のセットにほかならない。詳しくは、イギリス基準の考え方も含めて岡田[2002]184-86参照。ここに、特定資産の経済的性質を基礎にした内在的論理による合理的な会計処理のあり方がみられる。さらにいえば、その論理でもって企業価値との関係が論じられなければならない。

([60]) この企業価値を起点にするということで若干述べておけば、特に米国企業に見られる企業価値の最大化という企業行動が実は会計から始まったということが指摘される。例えば「1980年代の半ば以降、企業目的に関連する新しい現象が見られるようになった。企業活動の新たな推進目的として、企業が相次いで『株主価値』を採用するようになったのである。その始まりは会計だった」(ケネディ・奥村監訳[2002]6頁)と。ちなみに、こうした企業価値(株主価値)をその中心におく近視眼的な企業行動が、今日の米国の資本市場を根本から揺るがす問題と密接に係わっている。エンロン事件に象徴される会計・監査の問題は、実はそうした企業価値中心主義の企業行動に起因し、それと密接に係わってでてきているといえる。筆者のホームページに掲載中の「時事会計入門」参照。

([61]) 石川[2000]308-310頁ではこの2つの理論を畠中[1932]での「方法の学」と「現象の学」に係わらせて議論しているが、今日の英米のCritical Accounting(批判会計学)は、すでに理論的蓄積をもつわが国の会計制度論あるいは上部構造論とその方法を共有している。Critical Accountingについては石川[1991]133-37頁の注(19)以降を参照。社会科学としての会計学研究においては、個別資本説に比して会計制度論が制度の本質を扱うがゆえに、より社会科学としての議論が行われやすいともいえる。ただ、「方法の学」と「現象の学」のそれぞれの意義と問題点が相互に補完しあうかたちで総合していくことが、「計算」と「公開」の総体的理論形成につながるように思える。その意味で、それぞれの意義と問題点を明らかにすることが、まずもって重要な課題と思われる。

([62]) ちなみに第9回大会(京都大学)での津守教授の報告において、まだ非会員であったがフロアーから質問させていただいたが、それがまさにこの問いであった。そのさい、その質問に係わって陣内教授と小栗教授が相次いで質問されたことを記憶している。津守教授およびその両教授とともに、ここで議論するのも何かの因縁かと思われる。

([63]) ここで「所有関係」について説明しておく必要がある。木村・小島[1983](307)では個別資本の所有関係を示す勘定として、資本金・借入金・支払手形など貸借対照表の貸方勘定があげられており、借方の資本の機能形態に対する源泉形態といった理解になっているようにみえる。馬場[1975](89-90)にも同様の見解がみられる。しかし、ここではそうした「源泉」ということではなく、より経済学的観点からみておく必要がある。すなわち、資本の所有関係とは、端的には、そこから出てくる損益の性格(営業外損益)からみれば分かりやすい。「これら(営業外損益−引用者)はすべて、資本の所有関係から生じる『損益』である。つまり、貸付資本の所有関係により生ずる費用・収益と擬制資本の所有関係に基づき生ずる諸費用・収益、一括していえば資本の所有関係から生ずる諸費用と諸収益を包括している」(木村[1957b]282頁)との説明にもあるように、要するに生産物の生産に直接関係のない、生産的に使用されていない資本の用いられ方である。こうした観点から、事業会社の貸借対照表は貸方すべてが「所有資本」、借方は「生産資本」と「所有資本」から構成される。木村[1957a]では、銀行資本、信託会社、生命保険業などの生産的資本を扱わない貸借対照表が、純然たる資本の所有関係のみから構成される「所有貸借対照表」として議論されているが、それと木村[1958]での産業資本の貸借対照表(「生産貸借対照表」を比較すればより理解されるだろう。

こうした資本の観点から、とりわけその資本の生産関係(生産資本)と所有関係(所有資本)との区分の観点からすれば、これまでの「原価−配分−実現」の枠組みは前者に係わる枠組みにほかならず、所有関係に係わる今日の金融商品会計の枠組みをその拡大・延長上で捉えることは、こうした経済学的区分をみない見解であるといえる。また、本稿のTの第6節でも述べたように、今日の会計問題の特徴を資産評価の局面でいえば、割引現在価値に端的にみられるように所有関係の所産である利子(貨幣の時間価値)ファクターが割引計算(逆算)というかたちで資産・負債の直接的再測定に入ってきている。それは、経済学的には擬制資本価値としての時価測定の会計計算への浸透といえる。リース会計などは、いわば生産関係(元本額とその減価償却)と所有関係(利息相当額)が交錯しており、その区分がリース支払総額からの利息相当額の分離計算にほかならない。

なお、今日の時価会計問題の1つの特徴が生産関係ではなく所有関係の会計問題であるという点については石川[2000]231,286頁参照。また、金融商品はfinancial instrumentsであって実物のgoodsではないこと、そしてそこでのinstrumentsには「道具、手段」という意味の他に「証書、契約書」という意味があることに注意したい。

([64]) ちなみに、この点について木村[1965](特に第1,3,6章)の減価償却論でもって敷衍すれば、価値移転としての本来の減価償却(経済学的規定)と回収計算としての減価償却(転化形態)との区別および関連にからむ問題であるといえる。

([65]) 制度・政策論との係わりについては石川[1991]参照。特に、いわゆる「上部構造説」との係わりについてはそこでの注24を参照されたい。

([66]) 2つの本質機能とは@経済過程の認識機能(認識行為)とA経済過程の媒介機能(経済行為)である。詳しくは小栗[2001]第4節「会計の2つの本質機能」参照。先に述べた「会計の対象規定」に係わる議論は、ここでは第1の「経済過程の認識機能」に係わるといえる。これに係わってふれておくと、中村[1984]は「会計的認識と会計的行為とは、経済的認識と経済的行為の一部にすぎないものである」(18)と述べられているが、そのまま解釈すると批判会計学(critical accounting)は批判経済学(critical economics)の一部ということになろう。ここに会計学の固有性をどこに見出すかがあらためて問題となる。

なお、次の注67にも係わるが、ここで@の認識行為が単なる反映模写でないことは、今あらためて言うまでもなく、すでに議論されていることを指摘しておきたい。例えば、客観的認識ということは社会科学に固有の問題でもなく自然科学ですら問題になるのであり、「自然科学者は類似性と一致性を決定し、測定を行っているが、実態の概念としては、経験の安定性と共有可能性に関係した知的構成物以外になにももっていないのである」(Devine[1966]邦訳44頁、石川[1980]72頁および73頁注10)、会計理論は世界を“describe”(描写)するというよりは“prescribe”(規定)する(Watt & Zimmerman[1979]、石川[1999]136頁)、「認識における客観の反映を、…受動的な過程とみてはならない。…認識は創造的である」(田中[1980]11頁)、さらには会計の本質に係わる言語(会計)のベール観(客観的反映観)と非ベール観、すなわち「言語は現実の受動的な表現ではなく、能動的な表現、いや、言語は現実を創造するとの非ベール観にゆきつく」(青柳[1976]170頁)、言語による認識(分節)の社会的・文化的規定性についての石川[1999]84頁注6、生きた組織をもつシステムでの構造と機能の関係についての石川[1983]670-72頁、観察の理論負荷性についての石川他訳[1995]27-31頁など、例をあげればきりがない。

([67]) 同じく、「認識行為の客体も経済過程(資本運動)であるが、認識行為の主体も経済過程の要素(資本)となる相関関係が存在する」(166頁)。また、@は内部的な簿記計算による個別資本運動の媒介というレベル、Aは社会総資本運動の媒介機能を担うというレベルといった違いについてもふれている。

([68]) 財務管理の財務会計化ということもできる。より一般に、今日の会計においては、「管理会計の財務会計化」、逆に「財務会計の管理会計化」といった点も指摘できる。その意味で、今日の会計には2つの会計は画然と区分できない性格をもつともいえる。

([69]) 石川[2002b]補遺1の2を参照。

([70])例えば、そうした概念やそこからでてくる利益概念が無制約なものではなく、分配可能利益という枠に規定されていることについては山桝・嶌村[1992]第7章参照。さらには、動態論を会計理論以上にひとつの思想(現実的な意義・役割を担う)としてみるとき、それが当時のコンツエルンの経営管理の要求に即したものであるという考察は興味深い。神田[1971]第5章参照。

([71]) 石川[2000]補論7.1で取り上げた村瀬[1996]、加藤[1997]、および政治的プロセスの観点からその実行可能性について言及している石川他訳[1995]106頁、そして津守[1998]11頁などを参照。小栗[2001]での「@の認識行為は…Aの機能が強まり、資本主義的な経済過程を媒介・促進しようとする意識性が付与される」(167)、「@の機能における認識行為は会計制度に従って制度化された認識行為とならざるをえない」(169頁)に係わる問題である。さらに田中[1980]は認識様式を規定する(物質的条件に加えて)社会的条件に関して、「この問題(社会的意識の問題−引用者)を、主体と意識の間に、認識様式を媒介させて考えてみたい。意識が社会的に規定されるということは、その意識を生産する認識様式自体が社会的に規定されているからにほかならないと思うからである」(14)と、「認識様式」という概念をもって説明されている。ちなみに、筆者は田中・伊藤・木村[1980]の田中担当章を今日的問題もふくめてあらたに再構成し、単著として刊行されることを願っている。

([72]) 財務会計だけでなく管理会計もふくめた会計となると、生産力の側面を無視できない。西村[1989]は「いかに生産関係や上部構造から会計を捉えても、現実の会計は生産力の管理と深く結合しており、その関係を変えたり、否定することはできないのである」(序ix頁)と述べられている。会計の本質規定に係わる「会計の二重性」(第10章)及び第7章参照。

([73]) この「理解する」(understanding)ということについては、井尻[1996]および石川[2000] 188-90頁参照。今日の会計問題の拠って立つところの解明という点では、米国を中心にした「株主価値」(企業価値)思考が指摘されよう。ケネディ・奥村監訳[2002]は「株主価値」思考が企業に何をもたらしたかを、実際のケースをとおして詳細に明らかにしている。60参照。会計の「知識を得る」のではなく、会計を「理解する」という点で重要なところである。

([74]) 木村和三郎『科学としての会計学(下)』(有斐閣、1972年)「あとがき」(辻・山形担当)参照。

([75]) 時価会計に限って言えば、1950年代の資産再評価をめぐる「資本蓄積と企業会計」との係わりが実証もふくめて議論されている木村編[1955]参照。今日、実証研究(資本市場ベイスと非資本市場タイプ)が研究スタイルの主流になっているが、50年代にとりわけわが国の企業会計の実証研究がなされているのは忘れてはならないことである。

([76]) ここでリトルトン・ジンマーマン/上田訳[1976]の次の一節を引用しておきたい。すなわち、「我々は、あらゆる行為が何らかの動機づけの力に応じて始められるということを確信する。過去および現存の会計実務の基礎にある動機と信念についての十分な理解は、会計の将来の発展に対するありそうな代替的な道のうちから賢明に選択するのに必要である」(序文1頁、傍点は引用者)、「会計の進化は、主として固有の変化が新たに知覚された要求に応じて理解されかつ新しい方法が連続という現存している糸に付着されたという理由から、主として生起してきた」(351頁)と。

([77]) 石川・テキ「金融資産、独自の会計必要」(日本経済新聞200012月8日)参照。なお、このことと係わって補論も参照。

([78]) そのさい、どのような経済学を“選択”するかが重要になる。例えば、シャム・サンダー「契約理論的企業観と代替的会計観」(山地・サンダー[1996]第2章)では、「組織の経済理論」を基礎に3つの会計観(@古典的観点、A受託責任的観点、B資本市場的観点)が3つの企業の形態との対応関係において論じられている。問題は、そこで選択された経済学が会計の本質的機能(サンダー論文の第V節「会計の諸機能」)や会計の動態をどこまで深く説明しうるかである。とりわけ、他の経済学(たとえば前掲書では井尻、津守教授がマルクス経済学をなんらかの形で選択している)を基礎にしたとき、その「理解の深さ」の比較が重要になる。この問題は重要であるので補論で補足したい。

([79]) ちなみにもう1つ、それも計算構造論的な課題をあげておけば、本稿のT第6節でもその一端を論じたが、会計における割引現在価値計算のいくつかのケースを取り上げて今日の時価測定の特質を明らかにすることである。そして、その計算構造的に現れてくる会計測定上の特質がいかなる制度的機能と係わっているか、この両絡みを明らかにすることである。石川[2002b]参照。

([80]) 支配構造への影響については、例えば議決権行使の新たな動きについて報じている日本経済新聞2001年7月17日参照。特にカリフォルニア州公務員退職年金基金(CalPERS:カルパース)などの機関投資家に対して議案を事前に調査して賛成か反対かを助言する調査会社の存在が興味深い。

([81]) 例えば英国では、すでに90年代初期に財務報告制度における機関投資家の位置づけに関する報告書(「キャドベリー報告書」(Cadbury Report))がでているのが注目される。この点については今福[1992](31頁)参照。ちなみに、「(機関)投資家資本主義」なる資本主義がその行き着く先というわけではなく、さらに株式会社という形態そのものも必ずしも永久的なものではなく、それに替わる別の形態も含めて、いっそうの発展・展開が考えられよう。この点については奥村[1997]第6章及び奥村[1999]第6章「第3の道」参照。

([82]) 資本主義経済の具体的な発展形態という点では、注73でも述べたように今日の(米国を中心にした)「株主資本主義」の解明があげられる。ただ、今日その近視眼的な企業行動が会計不正をともなって特に米国資本市場を揺るがしている。1980年代半ばからおよそ20〜30年でその“正体”がみえてきたわけで、それが「××資本主義」といわれるだけのものかどうか、今後の展開をみていかねばならないといえる。経済体制というより大きなパースペクティブからは、次の都留[1988]を引用しておきたい。すなわち、「私は、かねてから、社会的剰余(サープラス)の形態が経済体制を質的に特徴付ける識別範疇である、という考え方を抱いてきた。たとえば資本制社会では、サープラスは私的資本に帰属する利潤という形態をとるとみるわけだが、だとすれば、日本資本主義の生成・発展・変革の歴史的過程で、どのようなサープラスの形態変化が生じたか、また生じる可能性があるかということについて、私は関心をもってきた」と。サープラスの形態変化はサープラスを対象にしてきた会計の形態変化につながるはずである。未来への展望ということでいえば、例えば「史的システムとしての資本主義」(そこには「万物の商品化」への圧力が内包されている)の相対性を説いたウォーラースティン/川北訳[1985]は「進歩は必然ではない」(158頁)、「千年前に比べれば、今日の世界が自由や平等や友愛に満ちているのは自明のことだなどとは、とうてい言うことができない。むしろ、事実はその正反対だというべきだろう」(146頁)と述べているが、そこでの「友愛」ということに着目すると、これまでの会計システムはそれとは対極にあるいわば「不信」から出てきているわけで、その基礎に史的システムとしての資本主義が存在する。であれば、「自由や平等や友愛に満ちている」世界には、それにふさわしい会計システムが存在することになるだろう。井尻教授がかなり前から「愛の会計」を展望されているのも、そうした未来をふまえてのことかと思える。少なくとも言えることは、そうしたまったく別の社会システムを基礎にした別の会計を想定することが、(歴史的に)今存在するところの(不信に根ざした)会計を相対化することにつながる。愛の会計については筆者のホームページに掲載している「カーネギー・メロン大学にて井尻先生と語る(1989年)」参照。進歩は必然ではなく、努力して生み出すものであるということが重要である。

([83]) こうした考察は、会計基準そのものの議論ではなく、それを生み出しているもの(経済的内容)を考察することになるので、その意味では「メタ・アカウンティング」、あるいは井尻[1996]での「超理論(super theory)」ともいえる。なお、メタ・アカウンティングについては、10年以上も前になるが先の「カーネギー・メロン大学にて井尻先生と語る」でも議論されている。

([84]) 後者に関しては注60、73、82を参照。前者に関しては、例えば現在緊急の会計問題となっているストックオプションとM&A関連の会計基準でも、その統一を急ぐ背景には(いずれも基準の緩いアメリカ基準への不信)、この国際的に分散投資している機関投資家への配慮がある(2001年8月20日の日本経済新聞参照)。ちなみに、 1990年代に入りアメリカの機関投資家の国際的投資がきわめて顕著になってきているが、例えば先のカルパースについていえば、その海外資産は総資産985億ドルで、そのうち47億ドルが対日投資、24億ドルが対イギリスである(三和[1999]150頁参照)。また、この機関投資家の分散投資と国際会計基準との関係は、IASBのツウィーディー会長の次の発言、すなわち「世界共通の会計基準がないと、投資家たちは分散投資を勧めても、なかなか応じようとしない」(早房[2001] 278頁でのインタビュー)にも垣間見られる。ちなみにいえば、早房[2001]の興味深いところは「会計・監査システムが民主主義とどう関わっているか」(あとがき)という視点である。注73でも述べたように、こういう社会科学的な視点が(会計・監査の単なる知識を得るにとどまらず)会計を本当に理解することにつながるのである。著者が会計学者でないところが、こうした見方にもつながっているわけで、その点も同時に興味深いところである。

([85]) 詳しくは石川[2000]第11章第4節(286-87頁)参照。そこでは金融経済学上の鍵概念と会計概念の相対化について議論している。

([86]) サンダーの動態観には市場およびその発展レベルという見方がその基礎にある。すなわち「その組織の要求に見合う会計システムの種類は、その組織が機能する市場の程度(the extent of the markets)に左右されるのである。…現実の市場の発展程度が、多くの会計上の考え方(accounting perspectives)や議論において非常に重要な変数となっている。…私の議論したい会計に関する3つの主要な考え方は、市場発展の3つの接近したレベルに結びつけられる」(サンダー[1996]20頁、傍点は引用者)と。問題は、そうした「市場の発展程度」から捉えられた会計の動態観、とりわけ「組織論によって私たちは、古典的観点、受託責任の観点、そして市場アプローチを調和的に重ね合わせた、会計に関する統合された理解(unified perspective on accounting)が可能となる」(同31頁)というときの「会計に関する統合された理解」の説明レベルであり、特に「資本」の経済学の動態観との捉え方の相違である。

([87]) 今日、このメーンバンク制は、時価会計の導入にともなう持ち合い株式の解消、間接金融から直接金融への政策シフトなどによって、その重要性は次第に低くなってきている傾向にある。この直接金融(資本市場)へのシフトの1つの要になる構造改革が「日本版SEC」の創設である。直接金融に係わる会計・監査システムのあり方は、こうした構造改革と密接に係わる。構造改革(日本版SECの創設がその柱)と会計・監査システムのあり方については、早房[2001]第5章が参考になる。

([88]) 例えば、マテシッチはその自伝的著作(Mattessich[1995])において基礎研究の重要性を次のように述べている。すなわち、「…基礎研究に専念したため、行動科学的研究や分析的研究といった当時の会計学研究の主流から外れることになった。しかし、私自身は、流行に流されることなく自らが重要であると信じ、魅力を感じた課題を追い続けてきたことを誇りに思っている」(p.75、傍点は引用者)、「会計学の主流が、基礎的研究を無視したり、研究の細分化によって蝕まれてはいないだろうか。C. デバイン、G. ガー、そしてとりわけ井尻雄士教授が、ここ10年ほどの間に基礎研究の分野で重要な業績を発表しているが、こういった研究を一層促進させるには、会計学の主要な学術雑誌の編集者やレフリーに、基礎研究の意義を理解させることがまず必要である」(p.79)と。こうした主張は今日の会計研究に必ずしも生かされておらず、1つの警鐘と受けとめたい。その点でも、「流行に流される」ことなく会計理論学会の意義をさらに高め発展させていくこと、他の学会とあまり変わりばえしない横並び的なものでない態度が何よりも重要であるように思える。

(89) 日本会計研究学会第61回大会(武蔵大学、2002年9月12〜13日)においても、統一論題(辻山報告と藤井報告)、自由論題第1会場ミニテーマ「財務報告をめぐる新しい展開」でもこの問題が取り上げられた。

(90)したがって区分されるカテゴリー数でいえば、Bでは区分カテゴリーが形式的には1つ増えるわけであるが、それは3区分アプローチでの「その他の利得・損失」のうち固定資産再評価損益に該当する項目が営業区分のコラム2にでてきているように(再評価差額)、米国と英国との1つの違いである事業用固定資産の時価評価が2×2アプローチのもとでは1つの独立したカテゴリー区分として報告されることになる。

(91)ここでReporting Performance のProject Summary(2002年8月、IASBのホームページ掲載)において、筆者の問題関心から特に重要と思われる以下の4点を指摘しておきたい。第1は、2つの列の区分が資産・負債の再測定からでてくる損益を別表示するという原則(set of working principlesのprinciple 3)に基づいている点、第2は2つの行の区分基準が総資本利益率と株主資本利益率との区分(同じくprinciple 1)に基づいている点(以上はパラグラフ11および10)、第3はそれらの諸原則の基礎にある基本原則(primary principle)が投資家にとって財務諸表項目の変化率を予測できることにあるとしている点(パラフラフ9)、そして第4は個別項目に関することであるがトレーディング目的保有の金融資産・負債に関する評価損益がコラム2で報告されるとしている点(パラグラフ13の(f))である。G4+1や英国案での3区分からすれば、経済活動の本来的相違に基づく2区分(「営業」と「財務」)に限定されたのは筆者の観点からしていいにしても、そのことでタテの2区分様式をとることになり、そのタテの区分基準の理論的基礎が問題となる。そのさい、3区分アプローチでの「その他の利得・損失」がコラム2にくるように思えるが、第4の論点でもみたように、必ずしもそうはならない。本文Tの第6節でもみたように、筆者はトレーディング目的保有であっても、その評価損益が直接的再測定に基づくかぎり(原則3より)財務区分のコラム2で報告されることには同意できる。ただ、そうなるとコラム1のタテ合計金額は(リサイクル禁止の原則を持ち出さなくても)明らかに純利益とはならない。いずれにせよ、以上の論点につきよりいっそうの議論が必要に思える。

(92) より具体的には、「概念書」(Concept Paper)での第2列の個々の具体項目、例えば営業区分(第1行)では「公正価値の期待外の変更」、財務区分(第2行)では「財務評価調整」といった項目の意味するものが何であるか、とりわけ利益概念の観点からそれぞれ検討する必要がある。

(93) 例えば@コラム1=会計配分を基軸にした発生主義会計の枠組みに基づく利益計算(本来的に資本・利益計算志向、フロー志向)、コラム2=ストックの(直接的)再測定に基づく(本来的に実体・リスク開示志向、ストック志向)、あるいはAコラム1の利益=収益・費用アプローチと資産・負債アプローチとのギャップは基本的でてこない性格をもつ、コラム2の利益=両者のギャップがでてくる、あるいは資産・負債アプローチからしかでてこない性格をもつ、あるいはB(わが国流の)分配可能利益という軸をおけば、IASB案にとらわれずに、コラム1=投下資本回収剰余利益(分配可能利益)、コラム2=それ以外の利益(実体開示・リスク管理といった別の目的から結果的・付随的に出てくる利益)、といった区分軸の議論も考えられよう。いずれにしても、区分基準がなんらかの意味内容をもつ概念的な基礎に裏付けられる必要があるといえる。

 

 

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