時価会計の経済的基礎

−証券金融経済の会計問題−

 

石川純治

 

 

1 序−30年前の問題提起−

木村和三郎は30年も前にすでに次のような問題提起をおこなっている。すなわち、「会計学においては、有価証券の評価問題については、いまなお全く完全に解決せられていない。…平均利潤/平均利子の分数式によって示される有価証券の価格は、商品の費用価格、有形固定資産の費用価格とは全く別のものであって、これを貸借対照表上どうして示すかが、未解決のままになっている。…有価証券の価格論については、会計学は、いまだに全く着手していないといってよい。この問題は、広い意味における評価論、価格本質論として将来に残された主要問題である」(木村[1972]260ページ、傍点は石川)と。有価証券に代表される金融商品の時価評価問題が会計制度ならびに会計理論上の重要な焦点になっている今日、その先見性を見る思いがする。

ところで、別稿でも述べたように、今日の時価会計は同じ時価会計でもかつての個別価格変動会計での時価会計とはその性格を異にする(注1)。その基本的相違は、端的に言って、それぞれの時価会計の経済的基礎が異なることからきている。では、今日の時価会計の経済学的基礎とは何であろうか、個別価格変動会計でのそれとどう異なるのであろうか。今日の時価会計が何処から来ているのかを真に理解するには、有価証券(株式)の経済学的本質や、信用制度の社会的発展形態といったこととの係わりで、すなわち経済学的考察に基づく会計的概念の史的相対化といった観点から今日の会計問題を見ることが重要となる。  

 以下、まず今日の時価会計の経済的基礎を明らかにするため2つの経済学的資本概念の区別、すなわち現実資本と擬制資本の区別についてみる(第2節)。そして、伝統的な会計の枠組みが擬制資本の一層の発展・拡大に対応できないかたちで現象化しているのが、今日の金融(派生)商品に係わる会計問題にほかならないことを(第3節)、また擬制資本から生じる成果(利回り)が現実資本からの成果(利潤)と経済学的にまったく異なることから会計的利益計算の会計基準ないし枠組みは後者と同一の枠組みではなく別枠のもとで構成されることを(第4節)、それぞれ明らかにする。最後に、以上の議論をもとに、今日の会計問題を深く理解するには理論はどうあるべきか、理論のあり方ないし役割について述べる(第5節)

 

現実資本と擬制資本−実物と金融の区別−

まず、擬制資本がいかなるものであるかをみるまえに、その資本運動が現実資本(機能資本)の運動とまったく異なるものであることをみておかねばならない。すなわち、「擬制資本の本質は、一般的商品の価格形成とはまったくことなった、資本還元価格としての価格形成に求めることができる。擬制資本は、それ自体が商品化されることによって独自の運動・流通運動(G−A−G’)をなすのであって、この運動は、商品の姿態変換としてのG−W−G’とは、まったくことなる」(飯田[1971]125ページ、傍点は石川)、また「擬制資本の特有な流通形態についてみれば、株式の流通が、それが代表する産業資本の現実の循環と何ら関係ないことが理解できる。…株式そのものがふたたび流通すべきものとすれば、そのためには追加貨幣(G)が必要である。この流通A−G−Aは、証券取引所を中心とする証券市場において行われる。この図(図1−但し破線枠は石川)で明らかなとおり、株式の流通途上に待ちうけるもろもろの事件や事故は、直接には、生産資本の循環に触れるところがない(鈴木[1977]51-52ページ、傍点は石川)と。

 

 

 

ここで重要な点は、図1にも示されているように(ちなみにgは創業者利得−(注2))、擬制資本の運動(G−A−G’)が現実資本の運動(G−W−G’)とはまったく異なったそれ独自の運動であり、とりわけ上記引用で「直接には、生産資本の循環に触れるところがない」と述べているように、それが現実資本の運動の「外」にあるということである。ここで、もし伝統的な「原価・実現」の会計枠組みが本来的には現実資本の運動(財・サービスの生産・販売)を補足対象にするものであるとしたら、それとはまったく異なる擬制資本の運動を補足する会計は「原価・実現」の会計枠組みとはおのずと異なるものとして説明されねばならないことになるであろう(注3)。少なくとも、ここでの金融経済学の見地からして、今日の株式有価証券に代表される擬制資本の会計問題を、現実資本の運動を補足する会計枠組みの延長ないし拡張でもって解こうとすることには本来的に無理があるということがいえるであろう。

次に、擬制資本とはそもそもいかなるものか、その本質をみることからさらに今日の会計問題に接近してみたい。例えば、赤川[1980]では「fiktiveとかillusorischとかimaginarとかが、価値に関する規定として用いられる場合、いずれも、抽象的人間労働の対象化されていない物が、商品として流通するとき、その価値または価格の本質あるいは、その構成方法について措定された概念のように思われる」(320ページ、傍点は石川)、また川合「1982」では「…これらはすべてそれらの収入の母体が、もしも貸付資本=利子をうむ資本であれば、どれだけの貸付資本になるかというように評価し換算しなおした、すなわちいわゆる資本還元、資本化した金額である。…経営を要しないあらゆる種類の定期的収入はその源泉の如何をとわず、一定額の利子うみ資本のもたらす果実とみられ、その背後に利子うみ資本が架空に存在するものとなり、これが擬制資本ということになる」(349ページ、傍点は石川)とそれぞれ説明される。

重要な点は、抽象的人間労働が対象化されている実物商品と、なんら対象化されていない(それ自体紙切れにすぎない)有価証券(金融商品)との区別である。この実物と金融の区別は、むろん会計問題と無関係でありえない。すなわち、「会計学上の価格は、いずれにしても経済学上の費用価格であるのに反し、有価証券の価格は、これとは全然別個のもので、利息、配当金を平均利子率で元本還元をした価格である。価格形成の経済的基礎が全く異なっているのである。商品の価値=価格は、社会の生産関係=生産工程において成立するものであるのに反し、有価証券の価格は、資本の所有関係、金融市場においてそれを前提として成立するものである。前者は生産関係の所産であり、後者は生産関係を基礎として成立する所有関係=権利関係において成立するものである。したがって、価格変動の原理も態様も全く異なっているのである。相場面をみるだけでは全くなんの変わりもないないようにみえる両者は、経済学的本質を全く別個のものとするものである」(木村[1972]260ページ、傍点は石川)と。問題は、「価格形成の経済的基礎が全く異なっている」、「経済学的本質を全く別個のものとする」ところの有価証券の会計的問題、より一般的には株式有価証券に代表される擬制資本の会計問題をどう解くかであり(注4)、それが本稿の冒頭であげた木村和三郎の30年前にさかのぼる問題提起にほかならない。

 

 

擬制資本の今日的発展と会計問題

 今日の金融(派生)商品の時価評価問題を金融経済学的見地からみれば、擬制資本の一層の発展ないし肥大化と密接にむすびついている。すなわち、「ただ擬制資本の範囲は固定したものではない。量的に増大するのはもちろんであるが、資本蓄積の発展とともに質的にも拡大してくる。〈のれん〉に代表される無体財産権は技術革新(特許権・技術導入)や会社の合併に伴ってふえてくるし、他方では信用制度の発展による遊休資本の形成、所得請求権移動の傷害を除去・軽減するする法技術や制度たとえば有価証券化(最近では貸付信託の創始)、需給適合の障害除去・軽減(第二市場の開設)、つなぎ金融の容易化によって、擬制資本は量的・質的に発展する」(大阪市立大学経済研究所[1965]161ページ、川合担当、傍点は石川)と。今日の金融派生商品(デリバティブ)も、ここでいう「法技術や制度」の一貫としてそのひとつの形態にほかならない。まさに、こうした擬制資本の量的・質的発展に伴う会計問題として現象しているのが、言い換えれば(本来的に現実資本の会計枠組みであるところの)伝統的な会計の枠組みがそうした擬制資本の一層の発展・拡大に対応できないかたちで現象化しているのが、今日の金融(派生)商品に係る会計問題にほかならない。

こうした擬制資本の量的・質的発展は、また信用制度の発展に支えられそれと密接に係わる。すなわち、「信用には、他方で遊休貨幣資本を生産的資本に転化する役割がある。こうした役割によって規定される信用を資本信用とよぶ。けだし貨幣はここでは資本として充用されるからである。あるいは貨幣を生産的資本として充用するために要請される信用だということができる。こうした信用の契機は、ただより多くの貨幣を引き出すために貨幣を流通に投ずるということにある。いいかえれば貨幣を資本として独自に流通させることである。流通信用が商品資本に貨幣形態を与えるためであったのに対し、資本信用は生産的資本(産業資本)の機能を拡張することを目指す」(飯田[1977]40-41ページ、傍点は石川)と。

そもそも今日の会計問題が何処から来ているかといえば、それはすでに述べたように、例えば減価償却に代表される「固定資産会計」のような生産的資本の内部からではなく、その外、すなわち遊休貨幣資本を生産的資本に転化するということ、つまりここでの「資本信用」から来ている。そして重要なことは、その資本信用が成立するには「ただより多くの貨幣を引き出すために貨幣を流通に投ずる」という流通の制度が存在しなくてはならない。まさに、(流通市場での)株式有価証券に代表される金融商品はこのより多くの貨幣を引き出すために貨幣を流通に投ずること(その典型は投機)を契機にした商品にほかならない(注5)。むろん、それが生産的資本(産業資本)の機能をよりいっそう拡張することに係わっていることはいうまでもない。したがって、今日の会計問題の特質、とりわけその経済学的見地からの特質を指摘すれば、それが生産的資本に直接係わる問題としてではなく、擬制資本のいっそうの発展・拡大に係わる問題として、また信用の社会的発展という視点からはそれを支える資本信用の一層の発展に係わる問題として登場してきている点にあるといえる。

 

擬制資本からの成果と会計的利益問題−実物商品と金融商品の会計基準−

資本の経済的性格および資本運動の基礎が異なれば、そこから生じる成果の概念も異なる。すなわち、擬制資本から生じる成果(利回り)は、現実資本からの成果(利潤)と経済学的にまったく異なる。例えば川合[1960]では、「利廻りは確定利子の約定的要素が信用の社会的展開の過程で発展的にはずされてしまったところのより高次のあらわれであって、質的にいえば利子のいっそう無概念的な姿である。…約定利子の場合は、貸手が直接に渡した当の相手たる機能資本家の工場の労働者によって生産された剰余価値の一部であるから、前貸資本と収益源の関連はなお推測されるが、利廻りにおいては前貸された貨幣は、利子の支払者たる会社には直接には渡されていないし、その金額もまた最初に生産過程に投入された資本額とは異なるからである。…利廻りは一切の契約的要素の拘束から解放された純粋に市場的な現象だからである。前貸資本家の理想は市場の危険から身を守ることであり、約定利子はその対人的な表現であるが、資本代位の市場にあっては、危険を他人に負わせる武器であった契約的要素はいつの間にか手中から消えさって、危険に直接さらされている自分をみいだすことになる」(5051ページ、傍点は石川)と述べている。擬制資本が先にみたように擬制的貸付資本であることから、貸付資本の果実である利子と異なり、擬制資本のもとでは「利子のいっそう無概念的な姿」、「純粋に市場的現象」、「危険に直接さらされている自分」と化す。こうした(契約的要素の拘束がないゆえに、つまり市場での)危険に対処する商品として登場しているのが今日のデリバティブにほかならず、それは擬制資本のいっそうの発展の反映でもある。

そもそも利子を生む貸付資本の運動それ自体が現実資本のそれとはまったく異なるものであり(注6)、しかも擬制資本はそのさらに擬制的なもの(擬制的貸付資本)であるから、その意味で現実資本の運動の外のさらに遠いところにあるといえる。したがって、会計問題として重要な点は、このような擬制資本からの成果(果実)をどう認識・測定するかということ、そしてそれが現実資本からの成果(利潤)とはまったく経済学的性質を異にするものであるかぎり、もはやそこでの会計的認識・測定の枠組みをもって(その延長上で)補足できるようなものでないということである。そのことは、同じく価格変動であっても、金融商品に特有な価格(相場)変動−その意味で今日の時価会計は「相場変動会計」−が、実物商品の価格変動−かつて議論されたところの「個別価格変動会計」−とはまったく異なることからも明らかである。すなわち、「価値なき商品の場合は、ただ需給によって変動するだけで、それをさらに帰省する中心をもたないから、その変動はいっそう奔放となり、見透しが困難になる」(川合[1960]102ページ、傍点は石川)、そのような金融商品の価格(相場)変動は「価値ある商品」であるところの実物商品の価格変動とはまったく性質の異なるものである。したがって、金融(派生)商品の相場変動に係わる利益計算の会計基準ないし枠組みは、伝統的な実物商品に係わる利益計算の会計基準ないし枠組み(端的には「原価・実現」の枠組み)とは、同一の枠組みではなく別枠のもとで構成されるというのが、金融経済学的見地からの1つの結論である(注7)。

 

今日の会計問題と理論の役割−本当に「理解」するとはー

最後に、以上の議論とも係わって、今日の会計問題を理解するうえで理論の役割ということについてふれておこう。井尻[1995]ではペイトン・リトルトン『会社会計基準序説』と木村和三郎『会計学研究』の比較検討(理論化のレベルの差)をもとに、理論の役割に関して非常に含蓄のある指摘がなされている。すなわち、通常の理論の役割として@「説明」、A「予測」、B「作動」の3つをあげられ、さらにそれと区別される「超理論」でのC「理解」の重要性について次のように述べておられる。「ここで『理解』ということは、たんに実在の事象について説明できる、予測できる、またはそれに作動してかえることができる、というレベルのものではない。こういった行為があくまで当該の事象に焦点があるのにたいして、理解のほうの焦点は事象の根本にある原理とそれから生まれる知識ということができるであろう。…したがって理解のために生まれた理論というものは、当該事象についての説明力・予測力・作動力に欠けるところのあるものであっても、それが原理というものを把握するために必要な要素をもっておればその存在意義はあるのである。こういう理論を「超理論」(super-theory)とよんで、通常の理論があくまで事象の説明・予測・作動をその役割とするのと区別することが有益である」(155ページ、傍点は石川)と。重要なことは、「事象の根本にある原理」といったレベルまでいかないと、事物を本当に理解するということができないということである。ものごとが本当に見えてくるというのは、そういったレベルから見てはじめて可能になってくるということである(注8)。

さらには、理解というレベルは説明・予測・作動のレベルとまったく別個のものではない。すなわち、「理解ということが説明力・予測力・作動力ということがなくとも価値のあることをのべたが、これはそういった3つの面での貢献がないというわけではけっしてない。むしろ『理解なき説明・予測・作動』には大いに危険性がともなうものである。それは理解に根ざした判断にもとづく説明・予測・作動には当該事象よりもっと広い事象から生まれる原理を把握することからくる安定性と自信をともなうからである。理解のともなわないそれは微視的で枝葉とらわれたものになりがちで、成功することがあっても一時的なものに終わりがちである」(156ページ、傍点は石川)と。何が枝葉で何が幹か、何が一時的な成功だけに終わらないか、それはすべてここでいうところの「理解なき説明・予測・作動」の危険性ということに係わっている。

こうした観点から、井尻教授は木村の『会計学研究』を高く評価される。すなわち、「こう考えると、『研究』(『会計学研究』のこと−石川)でのアプローチは通常の理論のレベルで解釈すると、これまでのべてきたような具体的妥当性の問題などで疑問点が生じるものであるが、超理論のレベルで考えるとまったく同感で、基礎学問につながる会計学があってこそ会計の本当の『理解』が生まれるものだと考えられるのである」(156ページ、傍点は石川)と。今日、アメリカを中心に会計の応用研究ないしは周辺研究がいっそう発展・拡大の傾向にある。それにひきかえ、あるいはそうした研究に傾斜しているがゆえにというべきか、「基礎学問につながる会計学」はかならずしも重視されず、また盛んであるとはいえない。だが、今日の「会計ビッグバン」(それは「金融ビッグバン」の会計的現象)という言葉に象徴される会計(制度と理論)の一大変革期にあっては、またそういう時であるがゆえに、その変革が何処から来ているかを「理解」することがきわめて重要になる。そこから現実に起こっている会計問題を見透すことが、本当に理解するということにつながる。

したがって、今日はむしろ基礎学問につながる会計学があらためて問われているということができる(注9)。本稿での考察、すなわち金融商品の時価評価にまつわる今日の会計問題を、現実資本と本質的に区別される擬制資本の会計問題と捉える原理的考察は、そうした「理解」としての理論の役割の1つのあり方といえるだろう。

 

*付記:本稿は金融商品の時価評価の論拠を巡る様々な見解を類型的に考察する一環として、拙稿「金融商品の時価評価の論拠を巡って−その学説論的吟味−」(『経営研究』第50巻第1/2号および第3号)での第9節「金融経済学からの手がかり」で議論した内容を圧縮したものである。したがって、他の多くの見解との比較など全体的議論の位置づけについては上記拙稿を参照いただければ幸いである。

 

(1)その相違を明らかにすることが、今日の時価会計の特質を浮き彫りにする。詳しくは石川[1995]参照。

(2)この創業者利得に係わる会計問題はわが国で1950年代にいわゆる株式プレミアム論争の一貫として議論されたが(その経済学的本質からの考察には別府[1964] がある)、それは擬制資本の「資本会計」(発行側)の問題であったといえる。したがって、擬制資本の会計問題は今回がはじめてというわけではなく、それが「資産(ないし負債)会計」(投資側)の問題として登場しているのが今日の時価会計問題であるといえる。この点については石川[1998]20ページ参照。

(3)詳しくは石川[1999]参照。

(4)今日の会計問題を擬制資本の会計問題と捉える見解は、例えば山形[1990]、津守[1995a,b]がある。

(5)投機マネーに典型的にみられるように、実物と切り離された(マネーのためのマネーによる)マネー経済はそれ本来の姿でありようがない。しかし、経済実態が見えないとか、潜在的リスクが見えないといった投資家の情報開示要求は、(米国型の)市場至上主義によるマネー肥大化に象徴されるように、実はそうした金融証券経済の肥大化現象と密接に結びついているといえる。石川[1999]38ページ。

(6)「利子つき資本はこうして〈現実の流通過程〉(G−W−G’、W−G−W)のそとによこたわる〈独特な流通過程〉(G−[]−G’)のなかで、ひとつの独特な環流運動(G−W−G’、W−G−WでのGやWの機能的運動とはまったくちがうところの)をおこなう」(大阪市立大学経済研究所[1965]1150ページ、飯田繁担当、傍点は石川)。

(7)例えば石川[1995]では次のように説明している。すなわち、「ゆえに、筆者の視点からは、本来別ものであるものが、原価主義会計の枠組みの中あるいは延長上で混同されて議論されているようにみえる。…もともと異質なものを混在させるのではなく、別ものは別ものとして分化・純化し、そのうえで両者をどう整合的に組み立てていくかといった議論がもっとあっていいように思われる」(32ページ)、また「計算構造のひとつの枠組みとしての原価・実現主義と、特定金融資産の時価評価からでてくる評価損益とはいかなる利益計算構造のもとで再構成されうるか、これこそが問われねばならない。少なくとも、本稿での議論からすれば、前者と後者がそれぞれ捕捉しようとする資本運動は根本的に異なるゆえに、ただひとつの評価原則(原価・実現主義)、それが現実資本の価値運動を捕捉するがゆえに基礎になっても、そのもとに部分的に取り込むといったことは本来できない。本稿での考察による理論構成からすれば、両者を捕捉することからそれぞれでてくる評価原則がまず明きらかにされ、そしてそれらを再構成しうる利益計算構造が提示されねばならないだろう」(3233ページ)と。

(8)したがって、何をもって「理解」するかがきわめて重要になってくるが、例えば本節でたびたび引用している川合[1982]の次の説明などは、ここでの「理解」ということと密接に係わっているように思える。すなわち、「今日われわれの眼前にあるものすべて転化した姿であるから、ここから本来的形態を探りだし、そこから逆に、資本にとっての意義、信用それ自体の発展との結合において転化の本質および過程を明らかにすること。諸学説の対立の一つの重要な契機は、本来的な形態をもってただちに今日の本質と主張し変質の意義を認めないか、あるいは眼前にみえるがままの転化した姿をそのまま無批判的に本質と主張するところに起こってくる」(序6ページ、傍点は石川)と。石川[1998]での「W 擬制資本の会計問題−会計学方法論によせて−」では、擬制資本の会計問題を特に@資本、A利潤、B信用、C価格形成のそれぞれの史的展開に対応する会計的概念の史的・発展的相対化という視点から論じているが、それもここでの「理解」ということと係わる1つの方法といえるだろう。

(9)例えば法律学においても川島[1987]では「基礎理論」とは何であるか、あるべきかという問題意識から、「『所有権』として法律的に現象してくるところの近代的所有権について、その規範論理的意味(それは「法律学」の作業対象であるが)をではなくして、その現実的な社会現象としての構造を分析することである」(320ページ)と述べている(川島[1982]では法現象を社会制御という社会過程の一特殊場合として構成するモデルを展開している)。現実的な社会現象としての法律もそして会計も、それらを現象たらしめている基礎があるはずである。その意味で、「科学としての会計学」と「科学としての法律学」とはその学問的基礎を共有しているといえる。

 

〈参考文献〉

 

赤川元章[1980]「『擬制資本』の概念について」(渡辺佐平編著『マルクス金融論の周辺』第9章)、

  法政大学出版局

飯田裕康[1971]『信用論と擬制資本』有斐閣

石川純治[1995]「原価・時価論争と資本循環シェーマ」『経営研究』第46巻第2号

――――[1998]「時価会計の基本問題」『会計理論学会年報No.12』

――――[1999]「原価主義会計とは何だったのか」『経営研究』第49巻第4号

井尻雄士[1995]「原価主義と労働価値説」(シャム・サンダー/山地秀俊編著『企業会計の経済

  学的分析』第7章、中央経済社)

大阪市立大学経済研究所[1965]『経済学辞典』岩波書店

川合一郎[1960]『株式価格形成の理論−擬制資本の研究−』日本評論社

――――[1982]『資本と信用−金融経済論序説−』(『川合一郎著作集第2巻』有斐閣)

川島武宜[1982] 「『法』の社会学理論の基礎づけ」(『川島武宜著作集第2巻』岩波書店)

――――[1987] 『新版 所有権法の理論』岩波書店

木村和三郎[1972]『科学としての会計学(上)』有斐閣

鈴木芳徳[1977]「資本の動員、擬制資本」(飯田・鈴木・野田・高山『金融資本論入門』第3章、

有斐閣)

津守常弘[1995a]「会計フレームワークの展開と現代会計の課題」『会計理論学会年報No.9』

――――[1995b]「測定・公開と経済学」(シャム・サンダー/山地秀俊編著『企業会計の経済    

  学的分析』第8章、中央経済社)

別府正十郎[1964]『資本会計の経済理論』森山書店

山形休司[1990]「会計測定の基本問題についての一考察」『経営研究』第41巻第1/2号