2003年5月書評(第1回)
評者:木村(4期生)
片山豊 財部誠一[2001]『Zカー』光文社新書
ISBN4334031013
56×35=1831文字
『Zカー』は、日産自動車という巨大企業を語る上で、最も重要な言葉である。『Zカー』は、日本名『フェアレディーZ』という若者をターゲットにしたスポーツカーだ。発音は『ズィーカー』。
1999年、日本の巨大企業である日産自動車が経営難に陥り、仏ルノーと資本提携という道を選択した。日産自動車が経営難に陥った最大の理由を財部はメディアを通してこのように発言したのだ。「日産には車好きの人間がいない」と。この一言がきっかけで財部は、もう一人の著者、片山豊に出会ったのである。
本書は、この片山豊と財部誠一が『Zカー』こそ、日産自動車そのものを変えてしまう力があるということを財部の取材と片山の証言から私たちに訴えているのである。
片山豊とは誰か。片山は今年で91歳であり、<ミスターK>と尊敬の念を込めて呼ばれている『Zカー』生みの親である。片山はもともとエンジニアでもなくデザイナーでもない。強いて言えば、セールスマンだ。ではなぜ、片山が『Zカー』の生みの親として尊敬されているのか。それは、全米に『Zカー』を売りまくったからだ。そして片山は、日本人では豊田英二や本田宗一郎など過去3人しかいないアメリカで自動車の殿堂入りを果たしたのだ。片山は日産にとって紛れもない功労者である。日本車になんか見向きもしなかったアメリカ人に日産車を売りまくったのだから。しかし、こんな輝かしい評価を受けた片山にはもう一つの人生があった。日産では片山豊はタブー中のタブーになっていた。タブーどころか片山豊を封印し続けたのである。
日産自動車は、米国では《ダットサン》ブランドで車を販売してきた。『Zカー』は『DATSUN240Z』で全米に売られまくった。しかし、当時の日産自動車の社長、石原俊は《ダットサン》ブランドが全米に知れ渡り、《日産》という存在が薄くなると勘違いしたのか《ダットサン》ブランドを葬り去ってしまった。さらには、若者向けにつくっていた『Zカー』を高級車へと変えてしまったのだ。そして日産車は全米では販売不振に陥り、経営状態も悪化していった。それについて片山は、売る側の事情ではなく、お客の立場で考えていかなくてはいけない、売る側の都合で押し付けてはいけないと、述べている。
《ダットサン》を全米に認知させた片山と、《日産》ブランドを押し、失敗した石原社長。このシャクにさわる結果が石原社長の片山豊を封印させた原因だ。そして『Zカー』も封印されたのである。全米で年間50万台を売る人気のあった『Zカー』は日産30年史には全くといっていいほど触れられていないようだ。そこまでして封印したかったのである。片山は、アメリカでは認められたが、日産本社では煙たがれる人生を送ったのだ。
『Zカー』は、日産の人間には愛されなかったが世界中で愛されている車だ。『Zカークラブ』という『Zカー』を愛した人たちの組織が世界にあり、会員登録数6000人を超える。彼らは、『Zカー』を乗り続けその楽しみを分かち合っているのだ。世の中には売れた車はたくさんあるが、時を越え愛され続けている車はめったにないだろう。
日産社員の中にも『Zカー』を愛してやまない人間がいたのである。彼らは『Zカー』をつくるために日産に入社し、それをつくることだけを夢に働いてきたのだ。『Zカー』は、封印されても様々な人々を強くつないできたのである。2003年、片山豊、『Zカークラブ』、『Zカー』を愛した日産社員、そしてカルロス・ゴーンが『Zカー』を復活させたのである。
私は、これだけの人間がたった1台の若者向けにつくられたスポーツカーになぜこれだけの情熱を傾け愛せるのか、不思議である。『Zカー』には日本を含め世界中で時代を超え魅了され続ける存在感があるのだろう。
ジャーナリストの財部誠一と『Zカー』生みの親、片山豊が『Zカー』こそ、日産そのものを変えると言わしめる理由に、こういった『Zカー』を愛した人間が世界中にいて、復活を望んでいたからだろう。本書は、日産の経営改革を扱ったものではなく、日産が新たに活躍するために『Zカー』をヒットさせる必要性を説いたものである。日産が財務ではなく本業で復活するには『Zカー』がキーを握っているはずである。