2003年夏休み書評(第3回)
評者:長田(4期生)
長山靖生[2003]『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書。
ISBN4480061290
35×53=1855字

 近年、フリーターの増加に伴いフリーターを批判・定義する著書が増え、マスコミでも連日連夜取り上げられるようになった。これは日本が抱える重要な問題だ。応援する話題もあるが、やはりまだ批判的なものが圧倒的である。
 本書はフリーターをけなすものでも応援するものでもないと思う。この現状に対し周りがどうフォローするべきかを考えさせられる一冊である。
 面白いのは理論の方向性だけではない。社会学的観点・経済学的観点の両サイドからフリーターを分析する視点である。途中幾度となくそうかと納得させられるだろう。私は経済学的観点を強めて読み進めた。
 では、著者が問い出たすいくつかの問題点を挙げてみよう。
 そもそもフリーターの起源はどこにあるのか。
1987年、急成長したリクルート社の社員が多様な生き方を模索している若者を応援したいという気持ちと、そういう若者の存在を雇用する会社側にもアピールする目的で命名したという。
 ニュアンスとしては、企業に就職しないで、自分の時間を自分で管理し、自由を楽しみながら、アルバイトで経済的には自立する若者像を提示していた。このような意味で現在フリーターを選んでいる若者はどの位いるのだろうか。世間一般の批評から考えると「自立」という言葉は当てはまらないはずである。
 働く意欲すら湧かない彼らの背景には意外な現実があった。デフレ環境の中で時給は下がり、規制緩和で需要が増えた派遣社員にもまた、生活の向上をもたらすとはいえない。最初からリストラを意識した雇用と受け取れる場面もある。そして、最大の問題点は、彼らの抱えている問題が何であるのかが、彼ら自身にも社会の側にも、よくわからないという点にあるという。個々が千差万別なのだ。
 ならば、フリーターを受け入れる社会はどうか。
フリーター型労働は、低所得者に対する福祉を敷き、高額所得者には各種の累進課税を課している国家制度に対する賢い対抗手段であるらしい。一方で、経済規模が縮小する中、雇用確保のためにワークシェアリングを導入しようとする動きがある。しかし、働きたくても働けない現状もある。
会社は労働の場であり、会社人間は、会社に身も心も捧げているように見えて、給料のほかにあらゆる満足まで会社から引き出そうとしているようだ。若者の「会社離れ」はここにもある。自分も正社員となり、会社が自分の全世界になってしまうのを恐れているからである。これは現在の社会状況にも関係する。彼らの父親はいまだ現役で、景気の衰退により長時間休みもなく働いている。それを生身に感じているのである。正社員になったら辞めにくいと言った考えもある。私も同感だ。離職率が高いとはいえ、責任の有無や任されたものを考えたら無責任に辞められないだろう。しかし、これは辞めることを前提にした考え方である。
フリーターの定年はすぐにやってくる。35歳以上の非正規雇用者をフリーターとは呼ばない。中年の未熟熟練労働者とみなされる。「若さ」に価値がある世界なのだ。
若者が社会的弱者という声が広まってきた中で何を意識すればいいのか。本書の最終章で著者がいくつか提案をする。現実の厳しさから逃げるなら逃げるで、逃げていることを自覚しなければならない。決着をつけなければいけない問題をモラトリアムや夢によって先送りせず破綻する前に、対策を講じなければならない。またフリーターでやっていくのならどのくらい費用がかかるのか把握しておかなければならない。フリーで生きるということは零細経営ならぬ「単独自己経営者」として生きることだ。
フリーターならフリーターらしい前向きの考えを持ち、何かを見つけられればよい。それをサポートする親はパラサイトシングルにならぬよう、ほどほどの距離をおく。
正社員と変わらない給料をもらい、それなのにフリーの道を選ぶフリーターたち。一概にその生き方は悪いとは言えないが、本書を読むことにより彼らの考え方にはそれぞれの意志があるのだと感じた。