2003年夏休み書評(第3回)
評者:松島(5期生)
中山治[2003]『戦略思考ができない日本人』ちくま新書。
ISBN4480059024
35×58=2030
私は戦争関連の歴史の本を読むのが好きである。特に海軍が好きだ。私の父方の祖父の兄弟二人が海軍に属していたことに影響を受けているのか、気付いたら祖父、父、私と松島家は三代に渡って海軍バカになっていた。海軍関連の歴史を調べると日本人の知恵と技術の高さが世界でトップレベルだということが確認できる。考えてもみてほしい。日清日露戦争の頃は主要戦艦の製造のほとんどを海外に頼っていた国が、たった40年後には世界最大の戦艦を作れる国になっていたのである。また日露戦争において世界最強の1つと呼ばれたバルチック艦隊を全滅させるという海戦史上最初で最後のパーフェクトゲーム演じて勝利するという偉業を成し遂げている。この歴史は日本人である以上、未来永劫に誇ってもいいだろう。明治から昭和にかけての日本の海軍の進化は人類史上類を見ないものと言っても過言ではない。ただし、これは陸軍にも言えることだが日本軍の戦略、戦術は日露戦争時がピークだった。日露戦争以降、陸海軍ともに転落への道に落ちていくのである。日本海軍の最期などひどい物だった。太平洋戦争終結時に生き残った戦艦は真珠湾攻撃時に旗艦だった長門のみ。その長門も戦後アメリカ軍に戦利品として没収されて原爆実験の標的とされてしまい、日本海軍終焉の象徴かのごとく撃沈されてしまった。この盛者必衰のごとき日本海軍の歴史。そう、日本という国はいつもこのパターンになってしまうのだ。世界で主役になってもすぐに転落して泥沼にはまり気付いたら底から抜け出せない状況になってしまうのである。それは今の日本を見てもわかるだろう。バブル時にGDPが世界第2位だった国が気付けば失業率5パーセントを超えている状況に置かれていて、アルゼンチンの次は日本が経済破綻するなどと陰口を叩かれる始末だ。私は潜在能力では日本が世界でナンバーワンだと思っているだけにそのことが悔しくてたまらない。結局は大局を描く能力、すなわち戦略家が日本にはいないのである。だから実力はあってもその力発揮することができないのだと私は勝手に結論づけていた。そんな時に出会ったのが今回の書評の本であるが、この本を読んでみて私の仮説が確信へと変わった。
この本の著者は臨床社会心理学出身の日本人論研究者である。故に本には心理学の用語満載であり、理解するのには難解な本なのだが、日本人が戦略思考を苦手とする原因の核心を的確に突いている。著者は日本の戦略を農業的性格、西欧の戦略を狩猟的性格と分析している。著者は戦争を例にして説明しているがこれが的に当たっていて面白い。西洋は狩猟民族である。狩りは不透明な要素が多く、そのため作戦が不可欠である。ましてや戦争は自分が狩られるか敵を狩るかの危険な狩りなのであるから高度な戦略が不可欠なのである。また西洋の歴史は侵略の歴史である。素性の全くわからない異国、異民族との戦争を沢山こなしていたのだから嫌でも高度な戦略を考えざるを得ないのだ。だが農業にはそのような戦略は不要である。米が人間に食べられるのが嫌で田んぼとともに逃げ出すなんてことはないからである。農業の方が狩猟よりずっと不透明な要素が少ないのである。また農業は毎年同じ作業の繰り返しなので、戦法は基本的に過去のやり方の反復になってくる。加えて日本は侵略されたことがほぼなかったので戦略を考える必要がなかったのである。と筆者の要点をまとめてみたのだが大分核心を突いているのではないだろうか。実は日本が上手くいっている時は西洋人の戦略を生かしている場合なのである。明治維新も西洋人の戦略を学んだ結果成功したわけであるし、日清日露の頃の日本軍の教官は西洋人だった。西洋人の戦略を学び、それを基本として作戦を考えたので勝てたのであった。日産が復活したのもやはり西洋人の力によるものが大きい。また日本が駄目な時は過去の戦略を馬鹿正直に繰り返している時だ。過去のやり方の反復が大好きな民族だから、創造性は生まれないし、過去のやり方の繰り返しの方が楽だから改革と聞くと拒絶反応を起こすのだ。日本がアメリカにぼろ負けしたのも日露の頃の戦略を神聖化して戦略を全く変えなかったからである。戦略とは状況に応じて百八十度変える必要が生じる時もあるのだ。本書を読んでみれば戦略の意味を今まで漠然としか理解してなかった人でもなんとなく理解できるのではないか。なんとなくでも理解できる人が多くなればなるほど日本人でも優れた戦略家が生まれてくるのではないかと私は考える。
という具合に本書は戦略について勉強したい人には持ってこいの一冊だが、著者がやや左翼的な考えなのが気になった。戦前の日本はオウム真理教だと言わんばかりの主張には正直引いてしまった。いくら左翼だからってそこまで戦前の日本を否定しなくてもいいのではと思うのだが。