三内丸山遺跡ギャラリ 20121111日撮影

三内丸山遺跡は、今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡。

1500年間も定住生活が営まれていた。

遺跡の航空写真

人口の半分は子どもなので、おそらく200人以上は住んでいた可能性が高い[1]

大型竪穴住居跡と

大型掘立柱建物跡(左後方)に

建物を復元

 

大型竪穴住居(復元)の裏側。

長さ約32メートル、幅約10メートル。

大型竪穴住居(復元)の内部。

集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。

大型竪穴住居の外での活動の想像図

共同作業や分担した作業、土器作り、道具作り、食料の加工、木材などの搬入や加工、編み物、清掃、住居や工具の修理などが日々行われていたことでしょう[2]

掘立柱建物(復元)

大人の墓の近くにあるので(倉庫よりも)祭祀の場だったと推定されている。

大型掘立柱建物(復元)。

高さは約20m。ナラの大木はロシアから輸入。

上からは北上湾や北海道も見える。

 

大型掘立柱建物跡の6個の穴。それぞれにナラ木の一部が残されていた。

こことは別の場所に建物は復元された。

同前。

柱間は4.2m、柱穴の径は2.2m、深さは2m [3]

大型掘立柱建物跡の6個の穴に残されていたナラの木の実物。

同上の背面。

径は1m弱、柱の周囲は焦がされていて、下面は刃先が丸い石斧で削られている[4]

竪穴住居の骨組みの復元。

ミュージアムの中で。

石槍(いしやり)

石鏃(せきぞく;石の矢先)

骨角牙製の釣針。

現在と同様な形状にすることが生産的であることが3000年以上前に知られていた。

石製アクセサリ。

右上にヒスイの玉。

自分をモノで装飾するとは、自己意識があったことの証拠。

 

石製アクセサリには耳飾りも。

三内丸山の石器の一部は北海道からも運ばれた。海峡をはさんだ文化圏が形成されていた。

 

北海道から運ばれた黒曜石の石器

北海道、長野、新潟、山形から黒曜石の石器が運ばれた。

ヒスイの玉は新潟から運ばれた。

縄文式土器(復元)の時代ごとの変遷。

煮炊きに使われた土器の痕跡の説明。

外側の下部に赤焼け、上部にスス、内側の中間に〔こげたものの〕こびり付きが痕跡になる。

漆塗りの〔木製の〕鉢の破片。

 

 

 



[1] 国立歴史民俗博物館『縄文文化の扉を開く』2001年、37頁。

[2] 前出『縄文文化の扉を開く』41頁。

[3] 前出『縄文文化の扉を開く』53頁。

[4] 同上53頁。