IBM基本特許の使用問題

中村清司「産業政策とコンピューター産業」

森川英正編『戦後経営史入門』日本経済新聞社、1992年、206207頁。

 

IBM封じ

 わが国におけるコンピューターの開発・試作は、後にふれるように十九五〇年代から始まっており、後にコンピューターメーカーとなる企業では五〇年代後半にすでにその試作を完了していた。しかしこれを事業化するためには、IBMが保有しているコンピューターに関する基本特許の使用問題を解決しなければならなかった。

 一方、IBMの子会社日本IBMは、戦前にIBMの全額出資で設立され、戦時中に敵国資産として政府に没収されていた日本ワットソン統計会計機が戦後復活したものであったから、外資法の認可を受けておらず、国内であげた利益は円ベース投資のかたちで自らに再投資するほかなかった。

 日本IBMとしては、外資法による認可を受けて親会社へ利益送金ができるようにし、コンピューター製造に乗り出すことが念願であり、五六年に外資法に基づき親会社のIBMとの特許・ノウハウの技術提携を政府に申請した。通産省は、日本IBMの申請に対しては審査を極力引き延ばしながら、日本企業のIBM特許使用問題については自らIBMとの交渉の前面に立った。つまり日本企業−IBMと日本IBMIBMの二つの技術提携問題をセットにして交渉を行うことによって、国内のコンピューターメーカーを保護しつつ、IBM特許の使用に道を開こうとしたのである。

 ようやく六〇年十月になって、通産省佐橋重工業局長とIBMバーゲンストック副社長との間で、IBM側が大幅に妥協するかたちで合意が成立した。条件は、IBMは、方式と機械に関するロイヤルティー 5%(対売上高)、部品のそれを1%、期間五年の同一条件ですべての日本企業に特許使用を許諾し、通産省は、IBMと日本IBMの技術提携と外資法による配当送金を特例として認可するというものであった(註10。同時に通産省はIBM側に、日本IBMのコンピューター生産の開始を契約締結後二年間待つこと、その後の国内向けの生産については通産省の指示に従って機種と数量を制限するという付帯条件を認めさせた(註11

 この合意に基づき六〇年十二月にまず日本電気、富士通、日立、東芝、三菱電機、沖電気、松下電器、北辰電機の八社がIBMとの特許契約の認可を受け、やや遅れて芝電気、東京電気音響、横河電機の三社もIBMの基本特許を導入した。こうした事態の推移から判断すると、当時の通産省は、IBMの活動を規制することに全力をあげており、国内企業のコンピューター市場への参入に対してはむしろ寛容であったとみることができる。

 

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(註10)「IBM社の技術提携問題一段落」(『情報処理』)196012月)243244頁。

(註11)日本アイ・ビー・エム株式会社『日本アイ・ビー・エム50年史』1988年、161頁。エコノミスト編集部『戦後産業史への証言(1)』毎日新聞社、1977年、142143頁、佐藤滋氏の証言。