トランジスタ25年(30)  特許戦争 “黒船来ると”緊張

『毎日新聞』19731027

 IBMが第三世代の電子計算機といわれるICを使った360シリーズを発表、ICの重要性をはっきりさせた昭和391964)年、わが国電子工業界の将来にかかわるような特許めぐる“大事件”が起きた。この年の一月、米国のテキサス・インスツルメンツ(TI)社が、100%出資の子会社を日本に設立したいと通産省に認可を申請したのである。

 

写真説明 ICの基本特許の一つであるTI社の構造特許をめぐって特許戦争が展開された。昭和42年にできたIC電卓(写真はその内部)も、特許問題のケリがつくまで輸出できなかった(シャープ提供)

 

TI社の上陸

 IC製造には、米国で生まれた三つの基本的特許が必要だ。一つはウエスタン・エレクトリック(WE)社の半導体に関する基本特許。次がフェアチャイルド(FC)社のプレーナー特許で、これはシリコン基板の表面に酸化膜を残す技術に関係する。そして三つ目が、ICにとっては最も重要なTI社のキルビー特許である。考え出した人の名からこう呼ばれる、キルビー特許こそ“トランジスタのような能動回路素子と抵抗、コンデンサーのような受動回路素子を同時に一つの基板に乗せる半導体装置”であるICの概念そのもので、ICの構造にかかわる特許である。

 当時の日本のICといえば、まだヒナもかえらず、やっと卵をあたためているような時代だった。そこへ、米国のICトップメーカーの一つであるTI社に上陸されたのでは、日本のICはひとたまりもなく壊滅するかも知れない。また、認可申請の時点では、日本ではキルビー特許は公示されてなかったが「将来、日本で同特許が成立し、TI社がこの特許にモノを言わせたら……」という心配から、日本の業界は“黒船来る”と緊張。翌401965)年夏に特許が公告されると、日本のメーカーは相ついで異議を申し立て、ここに4年にわたる特許戦争の幕が切って落とされた。

 

テキサス流交渉法

 同じ半導体をめぐる交渉でも、TI社の申請の前年の昭和381963)年にまとまったフェアチャイルド社のプレーナー特許の場合は、値下げの要求にも応じたが、こんどのテキサス生まれのTI社は“強敵”だった。

 当時の様子を知る人たちの話では、TIの交渉ぶりは“がんこで”“強引で”“押しの一手”だったという。このテキサス流交渉法には、国内産業育成の立場から、外国企業にとっては壁厚き“ノートリアスMITI [1]の通産省の役人たちもタジタジのていだった。

 昭和39年の通産省電子工業課長は吉岡忠氏(現・日本電子工業振興協会常務理事)だった。その吉岡氏がいうには TIの代理人が1週間か10日に1回は必ずやってきて話をしては“議事録”をとってゆく。ヤレ副社長が来るからとか、だれそれが来るからといっては局長に会わしてくれ、といってくる。会わしちゃマズイので、出張中とか国会へ行ってるとか、断る口実をつけるのが大変だった」。

 

三条件

 「向こうもすぐに認可されるとは思っちゃいなかったろうが、とにかくTI社は100%子会社を永いこと主張し続けた」と吉岡氏につづいて電子工業課長のイスに座った戸谷深造氏(現・日本電装開発研究部主監)はいう。

 「だからTIが日本でキルビー特許を公開しない場合に備えて、特許法98条に基づく政府命令で強制公開させることを通産省が一時、まじめに考えたこともある。特許法98条による強制公開が考えられたのは、敗戦直後の食糧難時代に、人造米の特許に対して“発動したら”といわれた時以来のマレなケースである。またOECDの会議で『適当な対価を払えば特許使用は許諾するルールを作ろう』と日本が話題に持ち出し、米国が反対したこともあった」(吉岡氏の話)。

 通産省は、こうして防戦に努めながら、認可申請から約2年半経った昭和411966)年八月末、次の三条件をのむならTI社の日本進出を認めると米国側に通知した。その条件とは(1)100%出資は認めない。日本企業との5050の合弁ならよい、(2)3年間は生産計画を日本政府と協議する、(3)キルビー特許が日本で成立した場合は、適当な対価で公開する、というものだった。

 

戦いすんで

 通産省が2年近く“引き延ばしている”うちに、国内の様子も変わってきた。各メーカーでのIC開発が進み、コンピューターや電卓に使われはじめたのである。昭和411966)年十月には、シャープがIC化電卓の試作に成功、翌42年には市販され、輸出が計画された。

 ここでTI特許の重要性がますますはっきりしてきた。大市場の米国へ輸出した場合、TI特許をタテに差し押さえをくう心配があったからである。トランジスタ電卓は411966)年から輸出が始まり、シャープは生産数の七割近くも輸出していた。「トランジスタがラジオの輸出で伸びたように、ICも電卓の輸出で伸びようとしていた」(戸谷氏)だけに、特許で輸出できなければ、首根っこを押さえられたも同様。どうしてもTI特許問題を根本的に解決しなければならなくなった。

 “三条件”に基づいてTIの“嫁探し”がはじまった。三菱電機が候補に上ったこともあったが通産省がウンといわず、結局白羽の矢が立てられたのがソニー。この“結婚”はソニーとしては決して“喜んで”ではなかったといわれるが、とにかく昭和431968)年1月にソニーとTIの合弁で「日本テキサス・インスツルメンツ」を設立することが発表された。

 これによってTI社は日本上陸を実現、日本側も3.5%の特許料TI特許を使えるようになり、ソニー、日立、三菱、東芝、それに日本電気が契約を結び、特許戦争もやっと解決したのである。

 ソニーとTI5050の合弁会社として431968)年5月に「日本テキサス・インスツルメンツ」が発足したが“予定どおり”3年後の昭和461971)年12月にはソニーは手を引き、TIは念願の100%日本進出をなしとげた。ソニーは“ダミー”であり“仮装パートナー”だったのである。

忍術から算術へ

 日本のICメーカーが、ICの基本的な三つの特許についてTIFCWEの三社に払う特許料は合計約10%に達する。バイポーラ型ICで百億円の売上げがあれば、十億円はこれら三社の取り分である。

 基本特許料だけではない。IC製造は装置産業化していて、ちょっとした装置が、まず億円単位だし、その製造装置やテスター類の多くは、主として米国メーカーが特許やノーハウを持っている。

 だから、今やIC製造は中小企業では手が出せないものになっている。いまや「ディスクリート(個別半導体)は忍術だったが、ICは算術だ」といわれている。

This Webpage is prepared thanks for Ms. Aoki Kayoko in Nov 2003.



[1] 「ノートリアス」notorious とは「悪名高い」の意味。MITIは通商産業省の英語名。欧米諸国からの「貿易や資本の自由化」の要求に対して通産省が抵抗して遅らせようとしたので、欧米諸国からそう呼ばれた。