IBM産業スパイ事件について

立石泰則『覇者の誤算 日米コンピューター戦争の40年』講談社文庫、1997年より

 1981年春、米国の上下両院合同委員会で、対日タカ派のボルドリッジ商務長官は、「高度技術製品でアメリカは自動車の二の舞を演じてはならない」「日本の技術開発と導入がアメリカの国内法に違反していないか、監視体制を強化すべきだ」と証言した。レーガン政権は規制緩和政策を採っていたが、コンピューター、半導体などの先端技術分野での圧倒的地位を守るという点では米国政府と産業界の意見は一致していた。824
 82年1月8日、米国司法省がIBM独禁法裁判を断念し起訴を取り下げた。

 1982年6月23日の早朝、「日立、三菱の社員 産業スパイで逮捕」という衝撃的なニュースが日本国中を駆け巡った。その日の夕刊各紙には、ネクタイにワイシャツ姿の日本人が手錠を後ろ手に掛けられたまま、片手をポケットに突っ込んだ外国人に引き立てられていく写真が載った。
 “日本人産業スパイ逮捕”の発表は首都ワシントンで、スミス司法長官とウェブスターFBI長官という二人の政府高官によって行なわれた。記者会見でFBI長官は「この捜査は、高度技術の窃盗を探索するために計画されたアンダー・カバー(覆面)捜査の価値を示す好例であり、捜査期間中のIBMによる卓越した協力を賞賛する」と語った。覆面捜査とは“オトリ捜査”のこと。日立と三菱の社員は、FBIがIBMの積極的な協力の下に仕掛けたワナに引っ掛かった。
 日立社員が盗もうとしたのは、IBMの超大型機「3081K」に関する文書『アディロンダック・ハードウェア・デザイン・ワークブック』である。3081Kは、3033の後継機として1975年に発表された3081の改良機として1981年秋に発表された。
 日立の神奈川工場に提携先のNAS社の技術者から全25冊のワークブックのうちの一部が持ち込まれた。日立は10年近くコンサルタント契約を結んでいる「ペイリン・アソシエーツ」に、残りのワークブックが手に入るかを問い合わせた。同社社長のマックスウェル・ペイリーはこの依頼を、IBMの機密保護上級法律顧問のリチャード・A・キャラハンに伝えた。IBMはFBIに通報し、オトリ捜査が始まった。
 ペイリーはFBIのオトリ会社「グレンマー・アソシエーツ」を紹介する。同社の社長A・J・ハリソンの本名はギャラットソンで、FBI捜査官、かつ元IBM社員。
 FBIはグレンマー社に三菱も誘い込み、その模様をビデオや録音テープに収めて証拠を取る。そして6月21日に取引場所に来た日立の社員が逮捕された。日立の逮捕者は4人、神奈川工場長ら幹部9人に逮捕状が出された。三菱は2人逮捕、3人に逮捕状が出された。

 82年7月1日、日立本社と社員14人の起訴が決まる。容疑は連邦法の「盗品移送共謀罪」違反。3081Kの機密情報を盗品と知りながらアメリカ国外に持ち出そうとしたというもの。
 9月、IBMは、日立に民事上の損害賠償を求めてサンフランシスコ連邦地裁に提訴。内容は、日立が不法な手段で入手した秘密情報の返還、その情報に基づくコンピューターの設計、開発、製造、販売の禁止など。後者はIBM互換機の製造停止を求めるもの。
 83年2月、司法取引により刑事事件が決着。日立は入手した文書が盗品であることを知らなかったとし、6月に逮捕された事実だけは認めて罰金刑だけになった。
 83年10月、IBMは日立と和解。日立がIBMの秘密情報を利用して利益を得たことはなかったことをIBMが認め、損害賠償はなくなった。しかしIBMは、日立が今後5年間に発売するコンピューターにIBMの機密情報が使用されているかどうかを検査する権利を手に入れた。日本電子工業振興協会会長の関本忠弘は「検査の内容や方法によっては、日本で共同開発してきた先端技術が海外に流出することになりかねない」と懸念を表明。この問題は日本の先端産業全体に影響すると認識された。
 司法取引と和解により真相は解明されなかった。

 日立が知りたかったのは3081Kのどんな情報か。ある日立関係者によれば、「インターフェイスの情報です。IBM機との互換性を維持するために不可欠。新型機が発売されてからインターフェイス情報を解読していたら3年以上かかる。一日も早く互換機を出すために早く情報を知りたいという誘惑に日立の社員が負けてオトリ捜査に引っ掛かった。」 最新鋭機の情報ではない。
 3081Kではインターフェイス情報の一部を半導体の回路の中に組み込んでブラックボックス化して解読しにくくした。これが日立の技術者が急いだ大きな理由。
 IBMはシステム/360の成功により世界市場の70%を占めた。国際標準機としての地位を固めるために仕様を公開し、互換機メーカーを容認した。それが強くなりすぎ、独禁法の束縛から自由になったときに互換機メーカー叩きに乗り出したのがこの事件。

 1983年10月20日、同事件と無関係なはずの富士通がIBMと基本ソフトに関する秘密協定を結んでいたことが発覚。ニューヨークのIBMのスポークスマンが日本人記者に秘密契約の存在を漏らした。富士通は、「IBMと互換なソフトウェア全般を対象に、IBMに対価を支払うことで合意した。支払いの性格、金額、方法、条件などの契約の詳細については明らかにできない」と発表。〔和解交渉は82年10月に始まり、83年7月1日に決着した。後述〕。のち日立も同じ秘密協定を結んでいることが発覚。
 富士通はハードウェアだけでなく基本ソフトも自社で開発して低価格と高性能を実現し、IBMから顧客を奪っていた。ユーザーの応用ソフトがそのまま富士通の互換機で動くには、インターフェイスは同じだが内部での処理方法は違うものにした。IBMはインターフェイスを広く解釈し、富士通は狭く解釈した。
 85年10月16日、IBMと富士通のあいだの基本ソフトの使用をめぐる紛争が判明。「米国IBMは、基本ソフトの著作権の協定(1983年)に違反してその一部を無許可でコピーしたとして富士通に巨額の違約金を請求するため、米国仲裁協会に仲裁を申し立てている。」
 仲裁法廷は非公開が原則のため、富士通機のユーザーは使用中の応用ソフトが使えなくなるという不安を抱き、富士通の受注が困難になった。ドイツのシーメンス社は、それまで富士通から汎用コンピューターのOEMを受けていたが、基本ソフトの販売を打ち切ると発表。
 1987年9月15日、米国仲裁協会が仲裁命令を出す。富士通のIBM互換機ビジネスをはじめて公式に認め、富士通は必要なソフトウェア情報をすべてSF(セキュアード・ファシリティ)において入手して有償で利用できるとした。その意見書の中で、IBMと富士通の和解交渉は82年10月に始まり、83年7月1日に決着したことが明るみに。
 1988年11月29日、米国仲裁協会が最終決定を発表。3.9593億ドル、既払い分との差額は2.27億ドル、最終的な支払いは8.3億ドル。富士通はインターフェイス情報を10年間入手できる。
 富士通の強気な姿勢の背景にUNIXがあった。AT&Tが1969年に個人用に開発した基本ソフトで、75年から無料で世界の大学や研究所に配布。ユーザーは書き換えたり新機能を付加したりしたため充実してきたが、統一性も失われてきた。これを標準化してIBMの市場独占を崩す武器にするという動きが欧州で登場。IBM機のユーザーは膨大な応用ソフトを使い続けるために不満はあってもIBM機からのがれられなかったが、UNIXならどのメーカーのハードウェアでも応用ソフトは共通して使える。