ゼ ミ 日 誌 駒澤大学 経済学部 小林ゼミナール
科目名: 演習 II |
開催日: 2008年11月13日 木曜日 |
司会者:なし |
欠席者:飛田、中村 |
日誌記録者:宮沢 |
次の日誌記録者:未定 |
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全体のテーマ |
「窓際族が世界規格を作った 〜VHS・執念の逆転劇〜」
報告者名、各報告の題名と要点/分担の範囲 |
「技術者魂よ、永遠なれ 男たちの復活戦 デジタルカメラに賭ける」
n これが放送された当時国内生産1600万台、世界シェア8割のデジカメがいかにして普及したか
昭和60年5月 カシオで「光を電気信号へと置き換えられれば夢のカメラができる」というプロジェクトを11人で開始
600の部品からなる最先端エレクトロニクス商品で新市場の開拓が期待された
昭和62年11月 従来のフィルムからフロッピーへと情報を焼き付け、テレビで見られるカメラをクリスマス商戦に合わせ発売
昭和63年1月 売れない 理由:ソニーが家庭用8mmビデオを発売 テレビで見るなら静止画より動画というニーズ→デジカメ市場の終焉
カシオはデジタルカメラ部門から撤退
平成元年 デジカメ開発をしていた数社の技術者が集まり再びカメラ開発の勉強会を開始→カシオ内でデジカメ開発の闇研開始
平成3年春 試作品「熱子」「重子」完成
結果:ビデオデッキ並みの大きさ、バッテリー持ち運びの必要性、重い、熱くなるといった問題点
→これらを解消するためにも2千万円をかけた5万個の回路を持つLSI開発が必要
平成4年 デジカメ開発は社内では冷たい視線。 そのため当時流行っていたポケットテレビの付属としてデジカメを提案→予算確保によりLSI開発
カメラ付きポケットテレビ完成→しかしポケットテレビとしては高いためにカメラを単独で販売(限定500台製造)
平成7年 アメリカにてデジカメをPCの展示会でアピール。 パソコン端子があることにより大好評
3月 日本発売開始 Windws95の発売と重なったこともありすぐに品切れ。 結果として20万台を越える大ヒット
「窓際族が世界規格を作った 〜VHS・執念の逆転劇〜」
n 放送当時世界で7億5千万台を出荷していたVHSの規格をいかにして経営危機にあった日本ビクターが開発したか、またソニーが開発したベータをどのようにして淘汰しデファクトスタンダードに成りえたか
当初ソニーがVTRではリードしていた。 ビクター本社は家庭用VTR開発中止→技術者は事業部へと追いやられる→本社に隠れて家庭用VTR開発着手
ビクター本社は業績悪化から各事業所の人員整理開始にともない元技術者3割削減命令
→元技術者は営業に移り、市場調査へと乗り出すと消費者から「2時間録画」というニーズが強くあることに気づく
昭和49年 ソニーがベータの開発に成功 5月発売
昭和50年8月 ビクター事業所がVHS試作機完成。 ベータとは違い2時間録画を実現
9月 松下幸之助を招き意見を聞くと、「150%の出来」。
その後ビクターは自社で技術を囲うのではなく、進んで他社へ試作機を貸し出す(VHSの規格を広めることを目的としたため)。
→他社との共同開発へ
結果:ベータを淘汰しVHSがデファクトスタンダードとなる
教員の発言 |
ソニーに対抗して新製品を開発するという点が二つのビデオの共通点。
規格を発展させるために技術を囲うか否か。
感想/問題点/提案 |
自分のおかれた状況に腐らずに、最後までやり遂げた結果、成功へと繋がったことから、技術とか予算とか何よりも気持ちの問題なのだと思った。また、特にデジカメの方で言えることだが偶然が重なったことも大きな要因だろう。もしPC端子が無ければ、もし液晶画面が付いてなければと、あげればきりが無いが、そういうものがあったからこその成功だったのかもしれない。
コバマサ:ビデオの要点が緻密にまとめられていて、傑作のゼミ日誌です。
ゼミとは限らないなんでもカキコミ |
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掲載日(自動): 2008年11月23日