2002.01.26〜2006.08.04更新
妖艶のうた『小倉百人一首』
秋はかなしき 日本人好みの抒情 宮内庁に最古の写本
秋はかなしき
「おくやまに……」と読み手が声をはりあげた一瞬、横なぎに払われた札が宙を舞う。天井にぶつかったり、ふすまに突き刺さったりすることさえある。北海道では木札も用いられているので、バシンという豪快な音がする。
公認競技会のレベルになると、「おくやまに」の札は「く」のところで消えてしまう。二字ぎまりだ。「お」(を)の発声の読み札は七枚あり、「おくやまに」「おとにきく」「おもひわび」「をぐらやま」はそれぞれ二字ぎまりだが、のこりの三枚は「おほえやま」おほけなく」「あふことの」で三字ぎまりである。しかし、名人クラスになると微妙なイントネーション(抑場)のちがいを感じとり、一字で見当をつけてしまう。
というぐあいに、百人一首を語るとすぐカルタ競技の話になってしまうのは、現在ではそれが単なるカルタにすぎず、書物として読まれていないということがある。うたの鑑賞などはどうでもよいのだ。しかし、
奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑきく時ぞ秋はかなしき 猿丸太夫
というわかりやすい歌一つとってみても、解釈上いくつかの説に分かれているのを知ると、あらためて歌の世界の奥行きを認識し、百首すべてについて鑑賞しなおしてみたくなるではあるまいか。
江戸後期の学者、尾崎雅嘉の名著『百人一首一夕話』によれば、「奥山に散り敷きてある紅葉の中を踏み分けて鳴きありく鹿の声を聞く時が、まことに秋の物悲しき至極の時節なりといふ心なり」とあるが、そんなことはわかっている。まずこの作者自身が奥山にいるのか、いないのかということが問題になろう。本居宣長は作者が奥山にいるとし、金子元臣は奥山にはいないで、遠くから鹿の声を聞くとする。さらに紅葉を「ふみわけ」ているのは人か鹿か、あるいはそのいずれもかということで議論が分れる。
もっとこまかいことをいえば、秋といっても初秋か仲秋か晩秋かということがある。契沖などは、この歌が出典『古今集』にあらわれる鹿のうたの二番目に排列されていることに注目し、秋の末ではにとし、賀茂真淵は秋深きところとする。
私などは「かなしき」という語感から晩秋を連想し、「ふみわけ」という具体的な語感には、鹿の足どりに作者の心も寄り添うているように感じられてならない。
日本人好みの抒情
じつをいうと、私が『小倉百人一首』を覚えたのは二十代になってからである。なにしろ少年時代は戦時体制一色であり、『愛国百人一首』がもてはやされていた。
これは昭和十七年十一月、日本文学報国会と情報局が一般推薦の十二万首の中から撰定したもので、新聞には「誦わんかな先人の情熱、必勝の新春に贈るお年玉」などと大仰に報道された。
山は裂け海はあせなむ世なりとも君に二心わがあらめやも 源 実朝
しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山さくら花 本居宣長
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂 吉田松陰
翌年、橿原神宮で第一回愛国百人一首大会が催されたが、まもなくカルタどころではなくなり、終戦とともに雲散霧消してしまった。歴史的に見れば、これも近世以降おびただしく出版された『武家百人一首』『どうけ百人一首』などの亜流の一つにすぎなかったのである。
鎌倉初期の歌人、藤原定家(ていかとも読む)が撰出した『小倉百人一首』が、なぜ七百年ものあいだ一貫した人気を保っているかといえば、それは撰歌の妙ということにつきるだろう。日本人好みの抒情をうたいあげた短詩形文学の粋 。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む 柿本人麿
あもの原ふりさけみればかすがなるみかさの山にいでし月かも 阿部仲麿
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉 丸
花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに 小野小町
必ずしも各歌人の代表作ではないが、これらの歌はすべて有心・妖艶の歌という意味で晩年の定家の心境に密着するものをもっていた。有心・妖艶 心のまことをうたいつつ、あでやかに悩ましき情熱をこめた歌というにつきる
そういう歌の見本を。定家自身が示している。
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ
すでに暮色蒼然たる浜辺。海は夕なぎのにぶい輝きをとどめ、松帆の浦(淡路島の北端)にはただ細々と塩を焼く煙が立ちのぼっているのみ。その寂然とした光景の中で、わが身一人はこがれるような思いで、いつまでも来ぬ人を待ちつづける・・・・・・。
建保四年(一一一六)、定家五十五歳のときの円熟作である。むろん虚構にちがいない。生来虚弱で、死ぬまで業病に苦しめられ、性格的にも内向的で、いささか狷介な面もあったという彼が、業平のように実際の恋愛体験を詠む機会に恵まれていたとは信じがたい。むしろそれゆえにこそ、“恋を恋する”イマジネーションは豊富で、尽きることを知らなかった。驚歓すべき若さである。が、そこにも年齢相応のわびしく心細い心境がしのびこんできている。
『小倉百人一首』は、恋の歌が半数近くを占めている。ついで多いのは四季の歌だが、とりわけ淋しくやるせない秋の歌が目だつ。晩年の定家の心底を示して興味ぶかいところである。
宮内庁に最古の写本
定家の 子為家は、関東の富裕な御家人、宇都宮頼綱の女をめとった。当時、荘園制の解体で経済的に窮迫しつつあった貴族が、この種の縁組をするのはめずらしいことではなく、地位を求める武士側にとっても渡りに舟だった。その頼綱が、定家の嵯峨(小倉)山荘の付近に別邸を設け、広間のふすまに貼るための色紙を定家に依頼したのである。嘉禎元年(一二三五)のことだ。
定家の心は動いた。彼が手がけた『新古今集』『新勅撰和歌集』などという肩のこるものとちがい、気がねなく自分の趣味を発揮しうる。七十四歳の悲願。
さっそく時雨亭と称する彼の山荘にこもり、二十日あまりで「百人秀歌」という手控えをつくったのち、色紙に認めた。この色紙はじっさいにふすまに貼られたかどうか不明で、のちに坊間に流出し、少数は現在にも伝わっている。
「百人秀歌」は宮内庁書陵部に写本が伝わっているが、百人一首が収録され、うち九十八首までが現在の百人一首に一致している。相違点は後鳥羽・順徳両院の歌がなく、別の三人の歌が含まれていることだ。承久の乱後、幕府により遠島に付された両院を外したというのは、明らかに政治的配慮である。色紙のほうには、両院の歌が入っていた可能性がつよい。
というのは、時世が一変して幕府への配慮が無用になったとき、すでに亡き定家にかわって、彼に近い者、おそらく為家が色紙を参考に、両院を含めた改訂版(というよりオリジナル版)を出したと思われるからだ。かくて成立したのが、いわゆる『小倉百人一首』であり、最古の写本が同じく宮内庁書陵部にある。室町時代の歌僧堯孝によるもので、雁皮紙綴葉装三折、すなわち重ねた紙を半分に折り、ひとくくりにして三つ重ねている。大きさ二三・八×一六・五センチ。全四十一丁だが、巻頭に定家の歌論「詠歌大概」を併収している。
残念ながら表紙は失われているが、裏表紙は朱を用いた紅葉の図柄に、「月やあらぬはるやむかしの春ならぬわかみひとつはものとのみにして」の歌を配する。百人一首は、豪族の社交用の部屋を飾るという動機から窺えるように、一種のシヨウピース(展示用名作)であるが、定家の高い選択眼をともなって、すぐれたアンソロジーとなった。よい意味での通俗名作集である。しかし、それがカルタにまでなって、自分の歌が空中に乱舞する結果になろうとは、歌聖としての彼も想像だにできなかったことであろう。
[補遺] 1435 百人一首一夕話 / 尾崎雅嘉著, 大石眞虎画 浪華 : 敦賀屋九兵衛, 天保4年 和中, 9巻9冊 刊 漾虚碧堂図書・永父等ノ印記アリ マイクロフィルム番号:(335)1/0535. 2/0591. 3/0647. 4/0704. 5/0761. 6/0819. 7/0869. 8/0925. 9/0979
『百人一首秀歌』『百人一首を覚える』(福島中央テレビちょっと便利帳)
810122 上野 美保さん入力