2002.02.06入力
「大鏡」栄華の軌跡
徹底した閨閥集団
現代風に言えば、「日本史上最大の氏族、華麗なる藤原一門のインサード・レポート!」ということになる。「藤原」というのは、大化の改新に功あった鎌足が、死の直前に天皇から賜った姓で、いらい三百年、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の」と歌った道長にいたって絶頂期に達した。近世に入っても、后妃のほとんどは藤原氏の出身だ。子女を後宮に送りこんで外戚の地位を獲得する手もやはり鎌足が元祖であり、これほど徹底した閨閥集団は海外にも稀である。したがって、裏面史も豊富なこと、いうまでもない。その一例―。道長の祖父にあたる師輔は、村上帝時代の右大臣で、摂政まであと一息という人物だった。若いころから最高権力を夢見ていたと思われる。一夜、目をさまして、かたわらの女房にいった。「ゆめに、朱雀門のまへに、左右のあしを西東の大宮(大宮通り)にさしやりて(ふんばって)、北向きにて内裏をいただきて立てりとなん見えつる」摂政関白になるという吉夢なのだが、この女房、小ざかいくせに察しのわるい女だったので、「いかにお股、痛くおはしましつらむ」と答えた。ズッコケるとは、このときの師輔の心境だろう。おかげで、右大臣どまりとなってしまった。だが、彼の執念はすさまじく、娘の安子を女御として入内させ、男子の誕生を実現した。しかも、すでに中納言元方の娘が第一皇子を生んでおり順序からいえばこちらが皇太子となるところを、師輔は地位と強引な政治力で、自分の孫を皇太子にしてしまった。このとき敗れた元方は死ぬほど歎き悲しみ、死後も怨霊となって師輔に祟ったという。皇子はのちに冷泉天皇となり、道長の栄華にいたるレールが敷かれることになるが、遺憾ながるから生まれつき「御物の怪こはく」(物の怪にとりつかれた性格、すなはち精神異常)、師輔は心を痛めつつ世を去った。その後あるとき、天皇は大嘗会の儀式に出ることになったが、一代一度の重要な儀式であるため、はたしてつとめおおせるかどうか、宮中一同の不安は非常なものがあった。ところが、案に相違して、立派に役目を終えたので、不思議に思った人々が御車の中をのぞいてみると、死んだ師輔が天皇をうしろから、しっかりと抱きかかえていた……
官位への執着
 師輔の子、兼通・兼家兄弟の暗闘もすさまじい。兄の兼道は、弟の兼家の出世が早いのを恨み、露骨な圧迫を加えた。「すべて非常の御心ぞおはしし」、つまり常軌を逸していたようだ。 病をえて、死期が迫ったときである。邸の外を車の音が近づいてきた。家来が、「東三条の大将殿(兼家)参らせたまふ」と知らせる。さすが兼通は、うれしさをかくしきれず、床の周囲を片付けさせ、そわそわして待った。死の直前にとり戻した兄弟愛―。彼の頭の中には、感動のドラマが幕を開けようとしていた。ところが、なんのことはない、車の音はガラガラ門前を素通りして、内裏のほうへ行ってしまったではないか。怒り心頭に発した彼は、家来に「かき起こせ」(抱き起こせ)と叫んだ。「車にさうぞくせよ(仕度せよ)、御前もよほせ(前駆の者ども、用意せい)」おどろく家来をせきたて、衣服を着かえた彼は、瀕死の身を内裏に駈けつけた。ちょうど兼家の拝謁の最中だったが、そこへ窪んだ眼をかっと見開いた兄が飛びこんできたので、アッとおどろく。委細かまわず兼通は「最後の除目(任命)おこなひに参りたまふるなり」と坐りこみ、兼通を左遷し、関白の位を別人にゆずると宣旨して、よろめくように引きあげていったのだった……。この話は、谷崎潤一郎の『兄弟』という作品の素材となっているが、他にも小説のタネになりそうな人物がいくらでもいる。太政大臣頼忠は極端なケチで、毎夜油ビンをもって侍女の部屋まで見廻り、使い残りの灯油を回収して歩いた。左大将済時はたいへんな虚栄家で、もらった進物をわざと庭先へ置いては夜になると倉へおさめ、翌日になると再び取りだして並べさせた。内大臣道隆の三女は露出狂で、客がくると御簾を高くあげ、胸をあらわにひろげて、突っ立っているのだった。客はハッとおじぎをしたまま、顔をあげることもできなかったそうです。このようなスキャンダルばかりではなく、『大鏡』作者の人間への興味は、きわめて多岐にわたっている。たとえば、賀茂の行幸日における道長の姿を描くところなど、絵画的な情緒が横溢している。その日は雪が降りしきっていた。道長は単衣の絹袖を引いて扇をかざすと、それもたちまち白くなっていくのだった。「上の御衣は黒きに、御ひとへ衣は紅の花やかなるあはいに(とりあわせに)、雪の色ももてはやされて(派手なとりあわせに)、えもいはずおはしまししものかな」。ほんの一コマのシーンだが、何気ない場景のなかに平安貴族文化の枠である‘みやびの精神?がこめられている。のちに三条院はこの日にことをよく思いだし、病の床にあるときも「賀茂の行幸の日の雪こそ忘れがたけれ」と語っていたという。じつは『大鏡』は、それから一世紀を隔てて書かれたものだが、この場面にかぎらず、うつろいやすい美が鮮やかなストップモーションのように記憶されているところ、当時の人々の感性を見る思いがする。
よき時代への郷愁
大鏡』の写本は、宮内庁書陵部、天理図書館、大東急記念文庫その他にある。もっとも古い写本は文永ごろ(十三世紀半ば)のもので、名古屋市の東松家に伝わっており、昭和二十八年重要文化財に指定された。巻子本六軸で、高さは約30センチ、紙は灰汁打ちをした雁皮紙を用いている。本文の紙背には、298ヶ所の裏書がある。これは登場人物や事項についての注釈で、たとえば「賀茂の行幸」のところには、「長和二年十二月十五日壬申天皇行幸賀茂社」というぐあいに記されており、後世の読者にはたいへん便利なものとなっ『大鏡』という書物がたいへんおもしろいという証拠は、ある学者がサラリーマンや主婦を相手に、毎月二回ずつ二年半の講読会を行ったところ、そんなに長いあいだ一人の落伍者もでなかった、ということからもわかる。成立期の十二世紀初頭にも非常に歓迎されたらしく、『今鏡』『水鏡』『増鏡』など、類似の構想をもった書物が生まれた。語り口の巧みさと文章力において、本家に及ばないが、このうち『増鏡』は後鳥羽院の隠岐配流や蒙古来襲などが扱われていて、それなりの興味がある。『大鏡』の意味は、古い時代を鏡のように映しだした記録ということで、内容は藤原氏十四代、百七十六年にわたっている。構成も大いに変わっていて、道長最晩年の万寿二年(1025)の時点で、二百歳に近い老人二人が昔話を語り合い、それに若侍がからむという形をとっている。一人が語り役となって、他があいづちをうったり、反論したりという趣向は、原稿用紙にして三百二十枚の長丁場をほとんど飽きさせない。『大鏡』のもう一つの興味は、書かれた動機である。十二世紀初頭といえば院政時代だが、そこから藤原摂関政治を批判するという視点はたしかにある。作者は鳥羽天皇時代の下層貴族と推定されるしかし、これは本書の性格の一面にすぎないようだ。作者はあきらかに、過ぎしよき時代の‘藤原氏の人々’を懐かしんでいる。全体として藤原びいきであり、欠点の多い人物にも寛容な、温かい目が注がれている。考えてみれば『大鏡』には偉大な人間は一人も登場せず、心を高揚させる話もあまりないが、小人物の人間性がみごとに活写されていて、千年も前の時代がすこぶる身近に感じられる。歴史というものは、小さな人物に動かされることがある。むしろ、そのほうが多い。現代もまさにそうした時代なのである。
811093(冨田早紀)さん入力