令和8年度 9月学位記授与式(卒業式)総長祝辞
令和8年度9月の学位記授与式に当たり、学校法人駒澤大学の教職員を代表し、卒業生の皆さん、そして関係される保護者の皆さまに、お祝いの言葉を述べさせていただきます。
永井 政之 総長
さて令和初年、中国武漢にはじまった新型コロナウイルスの世界的な蔓延がおさまってすでに4年余の時が過ぎ、今では、過去の出来事のような感すらあります。コロナ禍は終焉をみたものの、その遺した影響は決して小さくはなかった事、そしてそれがさまざまな場面で指摘されている事は今更申すまでもありません。「ニューノーマル」・「新常態」と言った言葉が使われる由縁です。一つ一つは些細な変化なのに、それが集合した結果としての「今」と言ってもいいかもしれません。
それにしても、毎日報道される最近の政治、経済、社会における、さまざまな出来事は、「人間はここまで出来るのか」、あるいは「ここまでやるのか」という、驚嘆とも、落胆ともつかぬ感想を持ってしか受け止められない世界に、「なりつつある」、あるいは「なってしまった」という事を実感させます。
そしてどのような場面においても、生成AIの存在を無視できない時代になっている事を否定出来ないように思っています。たしかに人類の文明が更なる高みを目指すために、あるいはその結果、起きるかもしれない諸問題の解決のために、「生成AI」の存在が欠かすことできない事はいまさら申すまでもありません。
しかし一方では、かつてアイザック・アシモフが提唱した「ロボット三原則」(第1条:ロボットは人間に危害を加えてはならない。第2条:第1条に反しない限り人間の命令に服従しなくてはならない。第3条:第1条・第2条に反しない限り自己を守らなくてはならない)もロボットを生成AIに置き換えるとすると、すでに過去の遺物となってしまった事も自明です。それはロシアとウクライナ間の戦争、あるいは最近、中国で行われた「人型ロボット」の運動会の報道から見ても、生成AIは使いようによっては、「兵器」として十分に通用する事は疑いありません。
ともかく生成AIの日進月歩の進化は、AIがAIを生み出すレベルに達しており、その能力はすでに「人間」を超え、人間のコントロールの及ばない事すら起こりかねない、あるいはすでに起こっていると、危機感とともに本気で予想されています。直近では、AI業界を代表するアンソロピックの開発者やCEO、オープンAIのCEO、スペースXおよびxAIのCEO、さらには国連グテーレス事務総長、EUフォン・デア・ライエン委員長、イギリス国王などによる開発のペースダウンの提言が報道されています。生成AIが「両刃の剣」である事は疑いありません。
そのような人類がかつて直面した事のない課題に、どのような解答が出せるのか、模索の途上にあるという事は確かです。そしていまここで確認すべき事は、皆さんがこれから歩み出そうとしている「未来」がどのような世界になるにしても、それを構築する主体は、あくまでも「私たち自身、人間にある」という事です。毎日、毎日の私たちの営みが、未来を作り上げるという事を忘れてはならないという事です。
1年次の必修科目「仏教と人間」をはじめとして、さまざまな機会を通して理解されたように、駒澤大学は「仏教・禅の教え」を建学の理念としています。
それは、どのような人生を歩むにしても、ブッダの説かれた縁起の教えに基づき、あらゆる存在に対して、慈しみの心を持って生きていく事を、人生の基本に置くべきとの信念によります。
翻って見たとき、私たち人間に欲望、仏教で言う「煩悩」のあることは否定できません。その欲望が、時には希望となって、豊かな文明を誇る現代社会を作り上げてきたことは歴史を見れば明らかです。更なる豊かさを求め、人間は生成AIを利用しつつ工夫を重ねるであろう事、言うまでもないように思っています。
一方、人間固有の欲望・煩悩の限りない膨張――爆発が、国連によるSDGs運動に象徴される様々な問題を、私達に突きつけている事、言うまでもありません。
仏教の歴史観に由来し、人口に膾炙する言葉として「世も末だ」という表現があります。「時代が悪い」などとも言います。「人間の努力では如何ともしがたい」と思われるときに使われ、平安時代に藤原氏が建立した平等院が阿弥陀仏の救済を願ってのものという事、御承知の通りです。
このような考え方に対し大本山永平寺を開かれた道元禅師は「時代が悪い。教えに従って生きうる器ではない」などと諦めてしまう事を否定して、「人々、非器なりとおもうことなかれ」と強く諭した事が知られます。思い通りにならない事態に至ったとき、環境や他人のせいにせず、「自分の可能性、すなわち人間の可能性を信じて事に当たれ」という事になります。
もちろん「人間の心」は千変万化する事が常ですから、「好き勝手に生きる人間」で良いというわけではありません。2500年前に仏教を創唱されたお釈迦様・ブッダは、「放逸であってはならない。好き勝手に生きてはならない」と諭されました。SDGsの運動も、結局はブッダの教えの延長線上にあると、私は受け止めています。
また大本山総持寺を開かれた瑩山禅師は「平常心是道」という言葉をもって悟りのきっかけとされたと伝えられます。文字通り、私達の普段の心のありようの大切さに気づかれた事になりますが、やはりそれは「放逸ではない心穏やかな生きかた」こそが、悟りの世界に他ならない事に気づかれたという事になりましょう。
皆さんのこれからの長い人生、予想できないこと、思い通りにならない事が、頻出する事は疑いありません。むしろ人類史上、はじめてという「出来事」ばかりが頻発する可能性の方が大きいと言えましょう。そんなときどう工夫し対処するか。
「脚下を照顧せよ」の教えのように、あわてて時流に流され、また好き勝手に生きるのではなく、一旦は立ち止まり、本学で学ばれた専門分野にかかわる深い造詣と、その基となる「仏教・禅」が説くところの「人間」としての生き方、本学が大事にする「智慧と慈悲」の教えを是非、思い起こして頂きたく思います。
その事を切に念じて、皆さんの卒業に当たっての、私のはなむけの言葉といたします。
令和8年9月19日
学校法人駒澤大学
総長 永井政之
