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ある明治人の記録:会津人柴五郞の遺書(柴 五郎著)

眼横鼻直(がんのうびちょく・げんおうびちょく)
Date:2016.04.01

ある明治人の記録:会津人柴五郞の遺書
柴 五郞 著
石光 真人 編著
1971年5月・中央公論社刊(中公新書252)
請求記号 K031/3-252
Kompass 書誌情報

「戊辰戦争」「会津藩」という歴史用語は、明治維新の激動を象徴する。そして、そこに生きた人々や地域の歴史を想起せずにはいられない。柴五郎は会津藩士(280石)の家に生まれ、戊辰戦争後、幾多の困難を乗り越え、陸軍軍人となり、陸軍大将に進み、とくに陸軍内では中国通として知られ、中国との関係に尽力した。
本書のサブタイトルには「遺書」とあるように、大部分は柴による少年期の自伝(草稿)について、編者が校訂を依頼され、それに加えて柴からの聞き取りや、他の情報を基に編集したものである。
第1部は「柴五郎の遺書」であり、戦時下の会津・城下の描写から始まって、戦後の東京移送、一転して陸奥「斗南」への移住とその生活苦が読んでいて厳しく伝わってくる。なぜここまで新政府は会津人に厳しかったのかと。
しかし、やがて「曙光」が一家にやってくる。柴が東京に学問修養へと向かう機会を得た記述で、読んでいて安堵する。ここには柴一人の力ではない、野田豁通をはじめ、柴の周辺や縁ある人々とのネットワークの有り様が、柴をその場その場、機会ごとに支えていることを実感させられる。その後、陸軍幼年学校から士官学校へと進んだ柴に、西南戦争・西郷自刃、また大久保利通暗殺の報が入ることになる。それについて、会津で祖母・母・姉妹を失った柴としては、「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なりと断じて喜べり。これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、いまもなお、咎むる気なし。」と手厳しく、批判をゆるめない。「会津人」の心情と言えようか。「遺書」の最後は、竹橋事件(近衛兵の反乱)の記述で、西南戦争と合わせて、これらは「維新に内在せる無理、摩擦、未熟、矛盾に起因するものならん」と喝破する。柴は会津人として、軍人として社会・世相を冷静に見つめていた。
第2部「柴五郎翁とその時代」には編者の「遺書」への想いと、柴の生涯を通しての「会津人の気質」が綴られている。
ところで、東北地方は歴史的にみると、古代の蝦夷征討、鎌倉幕府の奥州平定、秀吉の奥羽仕置、そして戊辰戦争など常に中央からの圧力に耐えてきたといえる。
本書を読んでみることで、改めて「東北とは何か」を考える一助となろう。そして、その延長には東日本大震災という大きな事実を思わずにはいられない。
本書はいわば、「敗者」からの歴史への回想であり、編者は、こうした「遺文(遺書)」により「維新史のどこかの間隙を埋めることができれば」としている。今後、こうした史資料の伝来調査と翻刻作業はもっと進められてよいだろう。
最後に一言、私の母方の曽祖父は生亀三郎(石井潔)といい、会津藩士(130石)の家に生まれた。戊辰戦争時には「白虎寄合一番隊」に所属し、西南戦争には2人の兄とともに戦地に赴いている。潔は会津落城後、東京に移送され、後に警察官の道を選んだようである。柴よりは7歳程年長であったが、どこかで会ったことがあるかも知れない。潔は明治13年(1880)に「香山日誌」、その5年前に「青森記行」と題する日記風の紀行文を遺している(ともに『駒澤大學文學部研究紀要』64・69号に翻刻、ともに駒澤大学学術機関リポジトリからダウンロード可能)。淡々とした文ながら、世相を見つめ、批判精神も伺える。機会があれば読んでいただきたく思う。

副学長 久保田 昌希

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